6.そして現在に戻る
朝起きるといい匂いがしてきた。
何の香りだろうと胸一杯に空気を吸い込み、フィーネは飛び起きた。
「あ、おはよう、フィーネ」
「おはよう……じゃなくて!!」
慌てて部屋から出れば匂いの原因、もとい、料理を作っている男を見つける。
一瞬自宅に何故人間が? と、思うもすぐに昨日のやり取りを思い出す。そうだ。今日から一カ月、居候がいるんだった。
「朝食、もうじき出来るから」
手際良く卵を割り、スープを作っているらしい男の後ろ姿を見て、フィーネは首を振る。
どうしてこんな事に、という事はもう考えるのを止めた。契約だ。そして朝食は対価なのだ。そう思わねば、この状況が理解できなかった。
――便利な下僕だと思えばいいのよ。
性別が男なのはいただけないが。
でもまあ、こんな無害そうな草食男が自分を害するとは思えない。
いざという時は毒霧の森に入ってしまえばいい。
フィーネは自分の中で結論を出して、一人頷いた。
「とりあえず水が飲みたいから入れて頂戴」
ツンとして命令すれば、アストリードは戸棚にあったカップに水を入れてくれた。
すでに井戸から汲んだ水を湯ざましにしてあったらしい。準備の良い男だ。
カップを受け取ったフィーネは「ありが……」と言いかけて、フイと横を向いた。いけない。安易にお礼なんて。
何かをしてもらったらお礼を言う。
これは曾祖母と暮らしていた時には『禁句』の一つだった。
感謝をするなという話ではなくて、魔女がおよそ口にしない言葉の一つだと教えられていたから。
『――だけどね、フィーネ。気持ちだけは、きちんと自分の中で生まれるようにするんだよ』
言葉に出さずとも感謝を。
伝わらないかもしれないのに? と、問うたフィーネに、『何も思いを伝えるのは言葉だけじゃない』と言った曾祖母。およそ、十年前の話。
遂に答えを教えてもらう事無く、彼女は逝ってしまった。
少し感傷的になってフィーネは視線を落とす。
魔女らしさを教えてくれた曾祖母は、同時に魔女らしからぬ事も教えてくれた。
それは人として必要なことなのだと分かるけど、フィーネにはまだ曾祖母の言葉には隠れている意味があると思っていた。
――私はまだまだよね。
魔女としても、人としても。
ふと、意識を現実に戻すと、隣から視線を感じた。
熱心に見られている気がするけど、顔をそむけたままのフィーネには状況が分からない。
――まさか、お礼を言わなかったから機嫌をそこねた?
だったら、それを理由に追い出せばいいじゃない。
そう魔女のフィーネは囁くのに、昨日の今日で約束を反故にしようとするのは不誠実だと、もう片方のフィーネが言う。
両者の言い分はどちらをとってもフィーネの正論。どちらも正解。選びようがなかった。
――ああ、もう! どうしろっていうのよ!!
考えがまとまらないうちに、不躾な視線を不愉快だと言わんばかりに目を細め「なによ」とアストリードを見上げる。不機嫌ならなんて言い返そうと迷いながら。なのに。
「……? 一体何なの?」
「いや……その」
口元を押さえ視線を泳がせるアストリード。
何故かその顔は真っ赤で。さっぱり意味が分からない。
「言いたい事があるならハッキリ言いなさい」
腕組みをし、不機嫌そうに睨む。
図々しいくせに、一体何を遠慮しているというのか。
心の中でそんな感想を浮かべていたフィーネは、次の瞬間思わぬ形で反撃を受けた。
「……服は着替えてきてくれると助かるな」
非常に言いにくそうに呟いた彼。
曾祖母が亡くなってから約一年。ずっとフィーネは一人で暮らしていた。もちろん人間がこの家に来る事はなかったし、この先もずっとそうだと思っていた。――つまり。
フィーネの寝巻は他人に見られる事を想定されていない。
「…………!!」
フィーネは薄布の寝巻ごしに自分を抱きしめて、慌てて部屋へと戻る。
バタンっと大きな音を立てて扉を閉め、顔を隠した。
「もう!! なんで、こんな!!」
叫んで、はっとする。
こんな声を聞かれたら、いけないのではないか。
よくよく考えればフィーネは妖艶な魔女で通っている。
薄布の寝巻を見られたぐらいで、騒ぎ立てるような事をしては印象がおかしくなってしまうじゃないか。
フィーネは鼻から息を吸い込んで、バシッと顔を叩く。
今の事件は忘れた。なにもなかったんだ、うん。
いつもの、妖艶さの出るドレスを着て、フィーネは再び部屋を出た。
こちらを見たアストリードが何かを言いたそうにしていたがもちろん無視。そのまま席につく。
ツンと澄まして、料理が出てくるのを待った。
その間に先程の事は記憶のかなたに葬り去られ、完全に切り替えが完了する。
これはフィーネが自慢できる特技の一つ。
「今日は外出するの?」
皿をテーブルの上に並べながらアストリードが言う。
「決まってないわ。気まぐれだもの」
本当は出かけないと決めている。
森で負った傷がもう少し癒えるまで、人前に出るのを避けるつもりだった。
「……傷が痛む?」
「まさか。私を誰だと思っているの?」
魔女に心配はいらないと、言葉に込めて言ったのに、アストリードは心配そうな顔で「本当に?」と聞いてくる。
「……余計なお世話よ」
フイと顔をそむけて言えば、アストリードは「そう」と心なしかしょんぼりとした声を出し、フィーネの関心を引いた。
――秘密その九。
冷たくした後、しょんぼりとされると気になる。
ちらりと、アストリードの方を見る。
伏せられた瞳は少し傷ついたような、元気のないように見えて。フィーネは心の中がもやもやとするのを感じた。
――どうしよう。慰めた方がいい?
元気出しなさい?
心配してくれてありがとう?
ちょっと待ってよ。それじゃあちっとも魔女らしくない。
フィーネがアレでもないコレでもないと葛藤している間に、ぱっとアストリードが顔を上げた。
それと同時にフィーネは顔をそむける。
「は、早く食事にするわよ」
「そうだね。折角出来たてだし」
おそるおそるアストリードの方を見れば、彼はこちらの視線に気がついてにこっと笑う。
――もう、一体なんなの!?
落ち着かない気持ちで食べた朝食は、思いのほかおいしくて。
フィーネは気がつけばペロリと完食していた。
◆◇◆◇
朝食後、逃げるように部屋へと戻ったフィーネは苛立ちで頭をかきむしった。
自分の周りの事なのに、上手くいかない現実。嫌気がさしてボフッとベッドに倒れ込んだ。
「こんな事で私、一カ月もつのかしら……」
小声で呟き、布団に顔を押し付ける。
自分の家なのに小声。すでにあの男を気にしている己が恨めしい。
といっても、いつまでも自室に閉じこもっているほどフィーネも暇ではない。
街へ行くのを控えているうちに、済ませておきたい事がいくつかあった。
とりあえずドレスを脱いで、普段着のワンピースに着替えた。
暑いけど袖の長い服。髪もひとつに束ねて、帽子の中へとしまった。
肌が出ている場所には日よけのクリーム、さらには服が汚れないように腕カバー。よし、これで準備万端だ。
鏡の前に立って、くるりと全身を見てみた。
こうして見れば、ただの田舎娘。まったく魔女に見えない。フィーネは溜息をつく。
本来自宅は自分の城であり、リラックスできる場所だ。
誰の目も気にせず、素の自分で居られる場所。
なのに今は、普段の服装さえあの男に見られ、どう思われるかが気になってしまう。
やはり魔女らしくないと思うのだろうか。それともあまりの変わりように馬鹿にされてしまうのだろうか。
そもそも泥だらけの傷だらけの姿を見られている以上、魔女の姿について固定概念的なものはすでに崩れているだろう。そうなれば普段着が田舎娘みたいであっても許されるかもしれない。だってここは森の入口だ。街へ出るドレスなどで生活していたら、たちまちぼろ布になってしまう。
そこまで考えて、フィーネは自分の思考に憤慨した。
――ちょっと待って。許されるって、なによ! どうしてあの男の許しがいるの!?
しっかりしなさいフィーネ! 私は気ままな魔女。誰の指図も受けないわ!
フィーネは自分の頬をパチンと叩いて、豪快に扉をあけた。
相手がどんな顔をしようとも知った事ではない。私は私のしたいようにする。
そんな風に息巻いて出て行ったのに、天敵アストリードの姿はなく、フィーネはいきなり出鼻をくじかれた。
「……いや、別にいなくてもいいんだけどさ」
なんだか昨日今日と、こんなのばっかりだ。
フィーネは肩を落として、そのまま庭へと出て行った。
お読みいただきまして、ありがとうございました!!