16.行かないで
決意の日から六日。表面上、穏やかな生活は続く。
アストリードの目的を探る為にフィーネは心を痛めながらも、罠を張り続けた。
信じたい相手を疑う。
これは精神的にくるものがあった。
「何で自分はこんな事をしているのだろう」と自問する日もあった。すべてを都合の良いように解釈して、「あれは夢だったのだ」と言いたくもなった。
けれど、フィーネは辛抱強く彼の様子を探った。
現実に目をつむっても、事実は変わらないと知っているから。
そんな苦労をした日々も、収穫はなしと言ってもいいほど空振りだった。
――人違い、だったのかもしれない。
半ば本気でそう思い始めた頃。
アストリードが買い出しに行くと言いだした。
「買い出しって、今日行ったばかりじゃない」
「そうなんだけど、買い忘れがあってね」
『――なら一週間後だ。それ以上はゆずらねえ』
軽薄そうな男の声が蘇る。
買い出しの周期は三日置き。
これまではずっとそうだったのに、彼はよりによってあの日から丁度一週間後にその周期を崩した。視界に暗雲が垂れこみ始める。
「……別に急がなくても良いんじゃない?」
「調味料なんだ。それがないと、味が決まらない」
「それを使わない料理にすればいいじゃない」
「材料がもうあるんだ」
買い出しを止めて欲しかった。そして明日一日、共に過ごせたら。
そうすれば、フィーネは彼を信じられると思っていた。
アストリードがいるのは後一週間。
その一週間を穏やかに過ごしたかった。
もう彼に嘘を重ねるのは限界だったのだ。
「本当に行くの……?」
いかないで。
私は貴方を信じたいの。
言いたくても言えなかった。
彼の目的が分からない以上、彼に心を許してはいけない。いや、許している事を悟られてはいけない。
フィーネは毒霧の魔女。
大切な森の植物、人語を話す狼ラルフとガルガンド。崖だって、滝だって、沼に至るまで、あの状態を維持してゆかねばならない。この場所を守り続けなければならない。
その為に自分は、誰にも支配されてはならないのだ。
アストリードの瞳が揺れた。
「早く帰って来るから」という彼に、いやいやと首を振った。
「フィーネ……」
「明日じゃなくてもいいじゃない」
「いつもは『そう』と言って見送ってくれるのに、今日は我がままだね?」
優しく言葉を紡ぐアストリードにきゅっと拳を作った。
「……我がままじゃなくて、気まぐれなのよ」
「気まぐれな魔女様はどうすればお願いを聞いてくれる?」
どうしても行くのか。
苦しかった。貴方は私を裏切っているの?
引き止めたい。料理なんて作らなくていい。
明日出かける理由が言葉通りなら、別の日にして。
――一緒に、ここにいて。
けれどもそれらのすべては言葉にできず、フィーネは俯いた。
胸が潰れそうだった。
近くにいるのに遠く、手を伸ばせば届きそうなのに、その手は伸ばす事が出来ない。
溢れそうになる想いのすべてを秘密にして、閉じ込めて、自身を守る鎧に足が重くなる。
のろのろと彷徨う思考。答えはなく、いつまで経っても自分の望むものが見つからない。
そう。
いつまで経っても――……見つからない。
フィーネは静かに目を閉じた。
これ以上、彼を引き止める術を自分は知らない。
「……魔女に願うなら対価が必要よ」
諦めたように言った。
彼を信じるために集めた材料がゆっくりと散らばってゆく。
目的があって、私に近づいた。
しかもあの軽薄そうな男のボスの命令で。
最初は当然のように疑っていた。
いつしかその疑いが消え、そうでない事を信じた。
秘密ばかりの自分に、本心で優しくしてくれているのだと思いたかったのだ。
フィーネは下を向いたまま顔を上げなかった。
アストリードの顔を見れば、みっともなく泣いてしまいそうだったから。
――なさけない、なあ……。
『妖艶な魔女』が聞いてあきれるわ。
フィーネは涙を堪えて、そう思った。
不意に。
視界の中に大きな手が入ってきた。
え? と、顔を上げれば、自分の黒髪がひとふさ持ち上げられている。
「な、なに?」
驚いて声を上げれば、アストリードはニッコリと笑って、顔を近づけた。
「!!」
身を引く前に、口づけが落とされる。
自分の長い黒髪に先に。それは優しく、愛おしむかのように。
大切だと、言われているように。
「すぐ戻るから」
「嘘」
反射的に言ってしまって、フィーネは失言を自覚する。「どうして」と聞かれたら、答えられない。
だけどアストリードはその事には触れず、穏やかに微笑んだ。
「帰ってきたら、おいしいご飯作るね」
のほほんと、そんな事を言う。
――どうして。
貴方はいつも。
張っていた気が緩んで、フィーネはくしゃりと笑った。
「……それ、いつもの事じゃない」
「おや? おいしいと、褒めてもらった事はないけど?」
思わずふいと顔をそむけた。
言わなくても分かってよ、なんて言えるわけがなかった。
期待してて、とアストリードは言う。
――そんな明日が、本当にくればいいのに。
フィーネはもう少しだけと、祈るように目を閉じた。
◇◆◇
翌日、アストリードが出て行った後、フィーネは静かに自室へと引き上げた。
着ていた簡素なワンピースを脱ぎ、いつものドレスへと着替える。
妖艶な魔女フィーネを体現する黒のドレス。
上半身はラインを見せるようにピッタリなサイズで、肩や鎖骨が露出し、胸元は深く開いている。切り返しより下はシフォンがふんだんに使われているフレア型で、歩く度に揺れる裾が美しい。
小物は肘まである黒い手袋と高さのあるヒール。そして右足首に輝く銀アンクレット。
皆が思う魔女はこうして出来上がる。
――今日、全てを明らかにするわ。
アストリードの部屋の前に立ち止まり、扉を見上げた。
短く息をつく。裏切りが発覚すれば、もう二度と彼はこの部屋に帰って来ない。
――仕方ない、のよ。
魔女を裏切るならば、報復が必要だった。
フィーネは強い魔女であらねばならない。魔女の逆鱗に触れたのなら、報いを与えねばならない。
鬱々とした気持ちに目をつむり、苦しい想いを切り替えるように長い髪を払う。ここに、ただのフィーネは不要。そう自身に言い聞かせねばならなかった。
一呼吸置いて。フィーネは颯爽と歩き出す。
凛とした立ち姿。憂いなど一切感じさせない涼しげな表情。
黒いドレスは元より、太腿まで入ったスリット、時折見える白い足に至るまで、すべてはそうと見えない鎧だった。
自分を守るため、そして森を守るため。
フィーネは秘密の鎧を纏い、強者のフリをする。
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