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第八話「選択」

 リーネは目を開けた。

 視界は闇だった。

 しかし、小さな黄色い点がぽつぽつと見える。ぼやけた意識をはっきりとさせるのに数秒を要した後、リーネはようやく自分が寝そべった状態で夜空を見上げていることに思い至った。

 リーネは上半身を起こした。

 周囲にはちらほらと電灯が見え、その明かりに木や芝生やベンチが照らされている。遠くから車の走る音が聞こえてくるが、それだけで、他には何も聞こえない。動くものは何も見当たらなかった。

「……ここは、公園?」

 リーネは首を傾けながら呟いた――――と、

「おや、気付いたかい?」

 聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 リーネが首を曲げると、そこに立っていたのは藤沢。先刻と同じような笑顔で、手には缶コーヒーが握られていた。

「ふふ。思ったより早くカムバックしたねえ。ダメージが少なかったってことかな? とりあえずよかった、よかった」

「……藤沢先輩? どうしてここに……。というか、ワタシはここで何を……」

「うん? 混乱してるのかな? 頭は打ってないはずだけど。…………思い出せないかい? まあ、思い出せないなら出せないで、むしろその方が――」

「……いえ、思い出しました」

 藤沢が語りかけている最中に――夜空――オフィス街の真ん中の公園――膝の上にかかっている毛布――これらを見たリーネは、すぐに記憶を取り戻した。ついさっきの〈敗北〉の瞬間、その情景。それらを一つ一つ思い出し、リーネの頭が俯いていく。

 藤沢は、そのリーネの頭を見下ろしながら、

「あ、一応言っておくけど、君が寝てる間、俺は君に何もしてないから安心してくれ。そもそもそんな暇がなかったしね。君が気を失ってたのは三分ちょっとだ。その間に君をこのベンチに連れてきて、寝かせて、自販機との間を往復して、戻ってきたら君は起き上がってた。時計を確認してくれればいい。それに、そもそも、想い人のいる女性に手を出すのは俺の趣味じゃないし、無防備な状態ならなおさらだ。だから――」

「……何で、藤沢先輩が?」

 リーネは藤沢の弁論を聞き流し、再度藤沢を見上げながら尋ねた。

「どうして先輩がここにいるんです? この少し汚れた毛布……多分、ワタシをキャッチするために用意したんですよね? これじゃ、まるで〈そうなることを知っていた〉みたいに、何で、どうして――」

 上体を乗り出して尋ねてくるリーネに、藤沢は――――口元に人差し指を立てる仕草で答えた。シークレットのジェスチャー。そしてもう一度にこりと笑い、

「……もし俺がいなかったら、君は確実に死んでた。俺は君の命の恩人だ。それは事実。そして君は、どうやら一命を取り留めたことにいくらか安堵している。安心している。ということは、君は、俺の行動に対して少なからず感謝していると見て、いいかい?」

「え? それは、まあ……」

「ふふ。よし、だったら交換条件にしよう。君は、俺に対して謝辞を一言も言わなくていい。感謝する必要はない。『ありがとう』と心の奥で思うことすら不要だ。俺のこの行動を忘れてしまったって一向に構わない。俺はそんなことで君を責めたりはしない――――その代わり、俺の素性についてこれ以上俺に疑問を呈してこないこと、そしてこのことを他人に言わないこと。これを約束してくれないか? 別に破ったからと言って俺に君を罰する能力はないけれど…………要は、これはお願いみたいなものだ。この条件、飲んでくれるかい?」

「え、いや…………」

 リーネは戸惑う。

 今日あのビルへ赴いたことを、リーネは誰にも話していなかった。東本家の人間にすら言っていない。事後報告でいいと思っていた。だから、リーネがあの場所にいることを知っていたのは、リーネ本人と式神ユネアのみ。情報を漏らすような隙を見せた覚えはないし、予測すら不可能なはずである。

 なのに、藤沢はあの場所にいた。

 それにそれだけではなく、藤沢は毛布まで用意していたのである。これはもはや、リーネがあのビルから落ちてくることを予測していたとしか考えられない。一体どんな方法で予見を立てたのか明確には分からないが、しかし式神の力を使えば、あるいは可能かもしれない。

 ――この藤沢も式神に関係しているのでは?

 そんな疑惑がリーネの中に浮上する。だが、こうして面と向かっている藤沢からは、〈そういう雰囲気〉は感じられない。小林雑音やスズランが発するような張り詰めた気配はない。気配をコントロールしているような様子もない。

 つまり、この藤沢亮介は〈ただの素人〉。

 ……ならば、問題は無いだろう。〈奴〉に敗北した以上、今は性急に次の手を打たなければならない状況。この用件は横に置いておいても何も問題はないはず――――リーネはそう考え、

「……わ、分かりました」

「ありがとう」

 ふふ、と薄く笑う藤沢。

「じゃあ、もう帰ろうか。駅まで送るよ」

 そう言って、藤沢は脇に止めてあった自転車のストッパーを外し、手で押しながら歩き出した。

 正直なところ、リーネは早く一人になりたかった。一人になり、〈奴〉を捕らえる次の手を考えることに集中したかった。が、ここで付き添いを断るのも変かもしれない。それについさっき命を救ってもらった手前、好意を無下にするのも気が引ける。

 リーネは仕方ないという結論に達し、

「……ありがとうございます」

 と言いながら、藤沢の後を歩き出した。

 大通り脇の歩道、藤沢が一歩前を歩きながら、

「……ところで、東さん。話は変わるけどさ」

「はい」

「君は、量子力学について詳しいかい?」

「はいぃ?」

 話題の変わりように、リーネの口から甲高い声が飛び出した。

「え? りょ、量子力学、ですか? いえ、まったく。その『量子力学』っていう言葉を聞いたことがあるくらいで……」

「そうか、よかった」

 藤沢はくすりと笑う。

「いや、もし君がそれに通じてた場合、今俺がしようとしてる話をしても釈迦に説法というか、俺が恥をかくだけだと思ってね。確認だよ。よかった。知らないなら、俺も喜んで恥を晒せるな。じゃあ、早速本題に入るけど――――実は、その量子力学ってのにおいて、量子の状態っていうのは、観測するまで決まらないものなんだそうだ」

「決まらない?」

「そう――――いや、煮え切らない話し方で申し訳ない。これは又聞きの知識でね。うちの部の部長、いや先代の部長がよくしてた話なんだ。彼は理学部に進学したんだけど――――まあ、とにかく、現代の量子力学っていうのは確率によって記述されていて、現象そのものっていうのは、観測されて初めて決定するらしいんだ。そのせいで、アインシュタインの猫――いや、ハイゼンベルグの猫だったかな? ――とにかくそんな議論までされるようになっていた、あるいはされているそうだ。これは学者さんにとっては難題かもしれないけど、しかし俺が初めてこの話を聞いたときは――――少し嬉しかった」

「嬉しかった?」

「ああ、嬉しかった。喜ばしかった。だって、つまりこれは現象を全部が全部百パーセント予測できることじゃないってことだろ? 『なってみるまで分からない』そういう事象が存在するってことだろう? 俺達が未来に期待する意味があるってことだろう? 世の中には地球シミュレータなんてものがあって、そのうち未来の出来事まですべて計算で導き出されるんじゃないかと思っていたけどね。どうやらそれは困難らしい。……まあ、この学問がさらに発展して、この問題が解決されてしまう可能性も無きにしも非ずだけど」

「いえ、あの、それはまあ、分かりましたけど……」

 リーネは藤沢の後をとぼとぼ歩きながら、戸惑った声で、

「……それで、その話が、ワタシと何か?」

「つまりね、未来を勝手に決め付けて悲観するのはよくないってことさ。猫が生きていると信じて箱を開けることに意義があるんだよ。箱を開けてみれば、ふたを開けてみれば、そういう輝かしい未来かもしれない。そう信じることは無駄じゃない。未来は決まりきってなんかいないんだから――――まあ、俺が言うのは変な気もするけどね」

 ここにきて、リーネはようやく分かった。藤沢が、自分を元気付けるためにこの話をしていること。つまり彼は、リーネが自殺しようとしてビルから落ちてきたと思っているのだろう。学校の廊下で会ったときのやりとりも、今思えば、そのことの確認だったのかもしれない。見当違いも甚だしいが。

「箱を開けるか開けないか。その『選択』。これこそが生きるということだと、俺は思うね。不安定な未来。不確定な未来。『選択』することだけが、希望を叶えるために俺達ができる唯一の術なんだから。その『選択』によって未来は変わるはずなんだから。だからそんな悲観しないでさ、信じようよ、自分の未来を。勝手に絶望して死に急いじゃダメだよ?」

「え? いや、あの、それは、その……………………は、はい、わかりました」

 迷った挙句、リーネは愛想笑いと共に頷いた。まったくもって的外れな励ましだったが、ここで否定して「じゃあ何でビルの屋上から落ちてきたのか?」と再び聞かれるのは困る。このまま誤解してもらった方が話はスムーズにいくだろう。

 話がひと段落ついたところで、

「おっと、着いたね」

 藤沢が立ち止まった。

 それにつられてリーネも立ち止まり前方に目をやると、駅が見える。スーツ姿のサラリーマンが行き来していて少々混雑していた。

「じゃあ、ここでお別れだ。気をつけて帰るんだよ?」

「あ、はい。あ、ありがとうございました」

 さっきから続けている愛想笑いのせいで頬の筋肉がつりそうになりながら、リーネは自転車にまたがって帰っていく藤沢を見送った。

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