第五話「形見」
東リーネが東本家の生業――すなわち、人間に害を及ぼす精霊の排除――を引き継いだのは、今から三年前のことである。
リーネには八つ程歳の離れた兄がおり、その兄が当時すでに職務を引き継いでいたため、リーネは必ずしも東本家の仕事を継ぐ必要はなかった。実際に、リーネが精霊使いになると言い出した時には、彼女の兄も父親も真っ向から反対してきた。リーネ自身ですら、いくらか迷いがあったのが本当のところである。
――命の危険が伴う危険な任務。
――かといって、何か得るものがあるわけでもない。
――ただ〈しきたり〉に準じて受け継がれている生業。
義務がない以上、リーネには精霊使いとなるメリットはまったくない。東本家が精霊使いを生業としてから今までの約八百年、長兄長姉以外の者がわざわざ仕事を引き継いだ例はほとんどなかった。あったとしても、後継者が短命であった場合など、仕方のない理由があるケースのみだったのである。
だがそれでも、リーネは進んで生業を引き継いだ。
周囲の反対を押し切って、リーネは精霊使いとなった。
この行動に際して、リーネの中には二種類の感情が働いていた――一つは、この職務に殉じた母親への尊敬の念。そしてもう一つが、母親を殺した者への復讐心――両方とも、母親に関する心情である。
リーネの母親は、十四年前に亡くなっている。
仕事の最中に、敵によって死に到った――――すなわち、殉職だった。
リーネの母親の遺体は、日本の東北地方のとある海底洞窟の中で見つかった。一週間以上音信普通になり、それを不審に思った兄が探し回って、三日後にそこで見つけたのである。母は、両手で握った短刀を自分の喉に突き刺した状態で発見された。
この様を見ただけでは、さも自殺したような状況だが(実際、社会的名目上では自殺として処理されたが)、母親がそんな人間ではないことは、周囲の誰にも分かりきったことだった。一体どんな状況だったのか知る術はなかったが、この母の自害は敵によって仕組まれたことは間違いない。母親は、他者によって殺されたのである。
母親は死の直前、服の袖をちぎり、そこに血文字でもって息子・娘への遺言を残していた。十行に及ぶ長いような短いような文面だったが、その中でリーネの心に残っているものが(当時リーネは二歳であり、文字を読めるはずもなく、後年になってその文面を読んだ際の感想であることは当然であるが)二つほどある。
――私が死ぬことを悲しんではいけません。私が死ぬことで救われる命があるのですから。誇りこそすれ、悔やむべきものではありません。
――東本家の者として、死を恐れてはいけません。我々は世界に無二の生業を継ぐものなのですから。誇りこそすれ、忌み嫌うべきものではありません。
特に後者は、東本家の生業を引き継ぐことになる兄への言葉であったのだろうが――――リーネは我が事として正面から受け止めた。或いは、この言葉を我が事として受け止めたいがため生業を引き継いだという側面も、もしかしたらリーネの無意識の中にあったのかもしれない。
そしてこの言葉があったからこそ、リーネは生業を受け継ぐ際の恐怖はまったく感じることがなかった。イギリスにおける精霊使いの仕事においても幾度か命の危険に陥ることもあったが、リーネは怖気づくことなく、勇敢にすべてを乗り越えてきた。
母の精神を立派に受け継いだ精霊使いになる。
そして、母の仇討ちをする。
これが、精霊使いとなったリーネの目標であり目的だった。実際のところ、リーネは生業を引き継ぐ三年前からすでに仇探しを開始していた。が、当時のそれはいわゆる情報収集であり、そこまで深く探れるものではなかった。
正式な精霊使いとなり、身を削る捜索を始めて――――そして今回ようやく、リーネはその仇の尻尾を掴んだのだった。母を殺した仇の名前、そして居住地。
「……必ず、絶対に」
リーネは小さく――――しかし力強く呟いた。一瞬叫びたい衝動に駆られたが、何とか思いとどまった。変に大声を上げるわけにはいかない。一応ここから見える範囲に他人はいないが、声が届く範囲にはまだ数人生徒がいるだろう。
ここはまだ学校――――放課後の教室だ。
リーネは見つめていた短刀から顔を上げ、それを静かにポケットへとしのばせた。もしこんなものが先生に見つかったら、色々と面倒なことになるだろう。いくら〈母親の形見〉とはいえ、それが言い訳になるとも思えない。先生が納得してくれるとは考えにくい。私生活を守るためには、こんなもの、学校に持って来るべきではないのだろうが。
しかし、今日は例外。
今日は、学校から直接〈そこ〉へ行くつもりだ。
リーネは頬を膨らませ、気を入れるようにふっと息を吐いた。そして椅子から立ち上がり、机の上のかばんを手に取る。その表情は強張っていて、さながら戦地へ赴く兵士のようなものだが――――実際、今のリーネはまさにそのような状況なのである。こんな顔つきになるのも当然と言えば当然だろう。
リーネは静かに歩を進め、教室から出ようとドアに手をかけた。
視界に入ったその手が少し震えている。リーネは今まで十数件、精霊使いの仕事を行ってきたが、一度たりともこんな風にナーバスになることはなかった。任務失敗への恐怖はない。ならば、緊張などするはずはないが。
――やはり、今日は例外なのだ。
これから向かう先に母の仇がいる。自分が母親とほとんど時間を共有できなかった原因。母親の記憶をまったくと言っていいほど手にできなかったその元凶。今から数十分後、自分はそいつと相対することになる――――そう思うだけで、心が高ぶってくる。
「……いけない、いけない」
リーネは首をふるふると振った――――これから会う相手が重要だからこそ、精神を乱すわけにはいかない。平常心でいなければならない。いつも通り、万全の状態で迎え撃たなければ。
リーネはもう一度ふっと息を吐いた。そしてガラガラと横に開け、
「……あっ!」
リーネは驚き、一歩後方へ跳んだ――――ドアの向こうに人影があった。見覚えのある男子生徒。クラスメイトの小林雑音だった。
「……小林……さん」
「あ、ごめん。驚かすつもりはなかったんだけど」
雑音はリーネに苦笑を向けてくる。
他者が見れば、ただのタイミングの悪い鉢合わせに見えるこの状況――――しかしリーネが驚いたのは、ドアの向こうに人が立っていたことではない。リーネはそんなことでは驚かない。精霊使いになる際、兄から少なからず手ほどきを受けているのである。少なくとも一般人の存在を(ドア越しとはいえ)数十センチの範囲で見落とすはずはない。
リーネが驚いたのは〈気配がまったく感じられなかったこと〉だ。
ドアの向こうに立っていたのが小林雑音だと確認し、むしろリーネは納得した――――〈小林雑音ならば〉、それくらいのことをやってのけても不思議ではない。数ヶ月前、リーネは雑音の立ち回りを間接的に見ている。その力量もある程度分かっている。危険視するべきだと理解している。気配を殺す術を身につけていても不思議ではない存在だ。
ここは学校であり、こんなところで騒ぎを起こせば、いくら雑音でもリカバリーはきかないだろう。今この瞬間、雑音がリーネに刃を向けてくる可能性は低い――――しかしそれでも、彼のリーチには極力入りたくないというのが、リーネにとって正直なところだ。スズランと同等、あるいはそれ以上に畏怖するべき存在。数ヶ月前の敗因も、突き詰めれば彼が関わってきたことだったのだ。
リーネはポケットの短刀に意識を向けながら、しかし何とかにこやかな表情を取り繕って、
「……ご、ごめんなさい。驚かせてしまって。……あの、ワタシ帰るんで、ちょっとどいてもらっていいですか?」
「ああ、邪魔しちゃってごめん――――ただ、リーネさん、ちょっと話があるんだけど」
「……話?」
「ああ。話――――というか、頼みごとなんだけど。今、時間大丈夫かな?」
雑音はあくまで笑顔のまま、リーネに尋ねてくる。
その思いがけない展開に、リーネは戸惑いを隠せなかった――――小林さんからの頼みごと? ワタシに? 普通の男子なら、こんな展開の場合、告白か何かの可能性が多いけれど……。さすがにこの人ではそれは考えにくいような。……まさか、数ヶ月前のことに関係すること? もしかしたら、彼の本性に関すること? あるいは、東本家に関すること? 精霊に関すること?
リーネの中にいくつもの疑問が駆け巡る。そしてどう答えるべきか迷ってしまう――――が、すぐに結論が出て、
「……あの、すいません。ワタシちょっと急いでるんで、また今度でもいいですか?」
「あ、うん。こっちはそんな急ぎじゃないから。じゃあ、また時間あるときに」
雑音はあっさり答えて、ドアから一歩後ろへ退いた。
リーネは軽く会釈して雑音の前を通り、そそくさとドアをくぐる。そして急ぎ足で廊下を歩いていった。
――小林さんからワタシへの頼みごととは、一体何でしょう?
気になる疑問ができてしまったが、しかし今のリーネには他の事に悩んでいる余裕はない。そんな場合ではない。これから戦なのだ。
リーネは廊下の角を曲がり、雑音の姿が見えなくなったところで一旦立ち止まった。そして雑念を振り払うように首を振る。視界と脳が揺れて、少しばかり気持ち悪くなる。しかしその浮遊感が今はちょうどいい。リーネは何とか気分をニュートラルに戻し、もう一度足を踏み出した――――が、
「やあ、こんにちは」
出鼻を挫くように、また別な声がかかってきた。
声の方へ首を向けると、廊下の窓辺に寄りかかっている男子がいた。色白で茶髪のセミロングの髪。日本と欧米系が混じったような、小顔で鼻が高い、いわゆる男前のルックスの生徒だった。
「……いや。こんばんは、と言った方がよかったかな? もう西の空は赤らんでるしね」
高級デパートの店員のような、この上ない微笑で話しかけてくる男子生徒――――リーネは、彼に少しばかり見覚えがあった。入学当初、同級生の女子に「近づかないように」と釘を刺された生徒だ。やたらと女の子に手を出してくる女ったらし。なんでも、同時刻に違う場所で十人以上の女性とデートを行った、という噂まであるらしい。
――名前は、えっと……藤沢亮介先輩。
確か、今年度の三年生のはずだ。『ESP部』とかいう、変わった部活の部長を務めていると聞いたことがある。その部活の活動内容はまったく分からないが。同じクラスの花塚さんもそこに入っていたはず。彼女の方はそこまで変わった人ではないので、彼女が属しているということは、名前はともかくとして、活動はそこまで常軌を逸脱しているということでもないのだろうか? まあ、入る気はまったく起きないけれど。
リーネは、なおもスマイルを継続している藤沢の方をまじまじと眺めながら、
「……あの、ワタシに何かご用でしょうか?」
「いや、用というほどではないんだけれどね」
言いながら、藤沢は耳の上をポリポリとかく。
「ただ、君、最近悩んでることはないかな、と思ってね」
「……は?」
反射的に、リーネの口からトーンの強い声が漏れる――――またしても……いや、先刻の雑音のものよりもさらに輪をかけて突拍子のない質問だ。初対面でいきなり悩みを打ち明けるよう言ってくるなんて、そんな声のかけ方は一般常識からだいぶ外れているだろう。
リーネは、もしかしたらこれが藤沢のナンパの常套手段なのかと思いながら、
「……いえ、特にありませんけど」
「そうかい? じゃあ、鳥になりたいと思ったことは?」
「ありません」
「飛行機は?」
「まったくありません」
「君は不注意なところがあるかい?」
「いえ……そんなにないと、思いますけど」
矢継ぎ早に質問してくる藤沢に、リーネは呆気に取られながら答える――――質問の意図がまったくもって見えてこない。ナンパでもなさそうだし、部活の勧誘でもないようだ。そもそも、質問に一貫性が見えない。何の目的があって自分に声をかけてきたのか、リーネには見当もつかなかった。
「君の家って、学校から遠いのかい?」
「えと……まあ、そこそこ」
「心霊スポットを巡る趣味とかあったりするかい?」
「いえ……したことありません」
「付き合ってる人はいるかい?」
「いえ、いませんけど…………一応、心に決めた人がいます」
「じゃあ、友達はちゃんと選んでる?」
「友達? えと、あの……」
いよいよ理解が追いつかなくなるリーネ。はぁ、と嘆息しながら、
「……すいません、ワタシ急いでるんで、後にしていただいていいですか?」
「……そうか。わかったよ。じゃあ、どうぞ行ってくれ」
残念そうな表情をしながら、藤沢はエスコートするように腕を水平に持ち上げた。
「引き止めて悪かったね。帰り道には気をつけるんだよ?」
そんなことを言いながら再度笑いかけてくる藤沢に、リーネは作り笑いを返しながらその場を離れた。
――藤沢先輩は、何がしたかったんでしょう?
さらに不可解な疑問がリーネの中に浮かんでくる。
今日は重要な日だというのに、またも不測の事態が起こってしまった。教室から昇降口へ向かうのも一苦労である。
しかしリーネはようやく下駄箱に到着した。そして白いシューズから外履きに履き替える。
建物から出ると、空の色は少しばかり暗くなってきていた。西の空にはすでに星が見えている。あと三十分もすれば夕闇になってしまうだろう。
まだ野球部が練習をしているグラウンドの横、玄関口から校門へと続くコンクリート道をリーネは歩いているが、他に歩いている生徒は見当たらない。六時間目の授業が終わった後、物思いにふけっている内にだいぶ時間が経ってしまった。ほとんどの生徒はすでに帰ったのだろう。
リーネは自然に早足になってしまうのを感じながら、しかし周囲にそれを気取られないよう無表情で歩いていく。そして校門を出て、くるりと右に曲がったところで――――目の前に白髪、白装束、長身の男。
リーネの式神、ユネアである。
「主、〈意思伝達〉でもお伝えしましたが……〈奴〉の居場所が分かりました」
「ええ」
低い声で静かに言ってくるユネアに、リーネはこくりと一つ頷いた。そしてそのまま前へと歩を進め、
「さあ、今宵、向かいましょう――――戦場へ」