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第二十一話「さようなら」

 リーネは最初、ジェックの言う意味がまったくわからなかった。

 確かに、口さえ動かせれば精霊降ろしは可能。まじないさえ覚えていれば、唱えることができるならば、どんな状況であろうとも使用できる手ではある。

 しかし、今この状況で唱える意味が分からない。

 どれだけ鍛錬を積んだ者であっても、精霊降ろしは百発百中とはいかない。おまけに、希望通りの精霊を降ろそうとすればなおさらだ。三十回唱えて一度でも成功すればかなり運がいい方だ。こんな切羽詰まった状況で、そんなものに賭けるなど、勝負を捨てているに等しい。如月ジェックがここまで自信ありげな表情になる意味がまったくわからなかった。

 ――ここで、ようやくリーネは気付いた。

 如月ジェックと初めて相対してからのこの数時間、疑問に思いながらも、脇に寄せていた疑問があったこと。考察を途中で放棄していた謎があったこと。つまり、

 ――この如月ジェックを呼び出した主は、一体どこにいるのか?

 そして、さらにもう一つ、先刻のジェックのセリフ。

「――因果なものだ、この状況」

 ……つまり、こいつが母と相まみえた際、これと同じような状況になった? それなのに、こいつは事無きを得ていた? 生き長らえた? そしてさらに、母はその直後に自らの手で命を絶った?

 ぐるぐると、リーネの中で思考が回る。

 そして次第に、その渦が収束していく。

 集束していく。

 終息していく。

 ようやく一つの結論にたどり着き、リーネはよろりとたじろぎながら、

「ま、まさか、アナタがやろうとしているのは――」


「そうさ――――〈俺自身を精霊降ろしする〉のさ」


 ジェックは動きが制限されているその顔に、したり顔を浮かべる。

 リーネは唇をわななかせながら、

「し、しかし、そんなこと、可能なわけ…………だ、だって、精霊を降ろすには、まじないを唱えた瞬間、その精霊が精霊界に存在することが必要。そしてさらに、まじないはこの人間界でしか唱えることができない。その二つの条件を満たさなければならない…………そんな、そんなことできるわけが――」

「――く、く、く。確か、に、普通の、精霊、には、そんなこと、無理、だ。不可能、だ。もは、や、そんなこと、を、考えること、も、しない、だろう、ね。し、しか、し、俺な、ら、可能、可能、なの、さ。そう――――『時間停止』を、使えば、ね」

 ――『時間停止』…………そ、そうか! それはそうだ。確かにそうだ。

「俺が、まじない、を、唱えた、瞬間、俺は、そのまじないの、時間を、停止、させる。そして、俺は、自らの、意思、で、精霊界、へと、帰る。そう、すれば、俺は、精霊界、で、精霊、降ろし、の導き、を受ける、こと、が、でき、る――――お前の、体へと、な」

 ――わ、ワタシの、体?

「お前、の、体、パンピー、よりか、は、鍛えて、ある、し、術も、使い、慣れて、る。おまけ、に、あの、藁人形、も、お前の、仲間、だ。油断、させ、近づ、いて、隙、を、つい、て、あいつ、も、殺してやる、さ。……ついで、に、東家、の、奴ら、も、な。……く、く、く。皆、殺し、だ。これ、以上、俺に、歯向か、う、奴、が、生まれ、ない、よう、に、な」

 ジェックは完全に勝ち誇った表情になり、そして、

「森羅、万象、司る、天の、導き、よ、我の、意の、元、望む、者、を、呼び、給、え。我は、義と、聖と、意と、真を、有する、者、也。精、即ち、世の、源、霊、即ち、見えざる、意思、それら、共に、有する、者、こそ、我の、意を、叶うべき、也。義を、以って、偽と、せず、聖を、以って、生とし、意を、以って、畏と、する、ならば、真を、以って、神と、成るに――」

 精霊降ろしのまじないを唱え始めた。

 リーネはどさりと、膝から崩れ落ちた。そして真っ白な頭の中、ようやく組み合わさったピースを改めて確認する。

 ――……そうか。そうだ。これが、お母さんが死んだ理由。自分で自分の命を絶った理由。目的。真意。そうだ。自分の体を悪用されないため、自分の命を止めたのだ。こいつの思い通りにさせないため、こいつの思惑を挫くため、東家の人間を守るため、自分で自分の喉に短刀を突き刺したのだ。

 目の前では、ジェックがまじないを唱え続けている。

 ――恐らく、このまじないはあと一分程度で終わる。あと一分で、こいつはワタシの体を乗っ取ることができる。他でもない、自分を降ろすのだから、何もかもを知り尽くした自分を精霊降ろしするのだから、失敗などするはずもない。一度のまじない詠唱で十分。……あと一分で、このシールドを壊すのは、無理。曲がりなりにも、時の精霊が作り出した防御壁だ。そんなのは、悪手。こいつを止めるには、それよりも、やはり、自分の命を絶つ他ない。他に考え付かない。あるはずがない。ありえない……。

 リーネは握りしめた短刀を、喉の位置に持ってきた。

 ――そ、そうだ。これは母がたどった道。尊敬するお母さんと同じ道だ。間違っているわけもないじゃないか。ここで私が命を絶てば、こいつは人間界に留まれない。それにワタシの家にはこいつの手がかりが少なからず置いてある。今度こそ、兄さんや、他の東家の人たちが仇をとってくれる。それを信じて、こいつの悪行を止めること。それが重要なのだ。

 リーネは短刀の切っ先を首にあてがった。

 ――こいつの最期を見れないまま死ぬのは口惜しい。が、しょうがない。自分の詰め甘かっただけのことだ。精霊使いとして生きていくと決めた日から、この命はこの生業に預けている。ずっと命がけだった。今さら、躊躇するわけにはいかない。躊躇する意味がわからない。これが、人を守るということ。お母さんから引き継いだ仕事だ。

 リーネは諦めたように、諦めがついたように嘆息し、短刀を握る手に力を込めた――――が、

「……あ、あれ?」

 リーネは小さく呟いた。

 そんなことはないと思っていたのに、ありえないはずなのに、今まで一度もなかったのに、自分の意思と関係なく、自分の意思に反して、なぜか――――短刀の先端が、一点に留まらない。わなわなと、振れている。

 ――ど、どうして、何で、腕が震える? だ、だって、これは正しいこと。尊敬するお母さんも辿った道。それに、ここで首を切らなければ、また多くの人が死ぬというのに、殺されるというのに、どうして、腕が震える? 手首が震える? 刃が震える? これは正しい、のに、正しい、のに、のに、のに、のに……。

 リーネは一層力を込め、短刀の先端を皮膚に強く押し付けた。金属の冷たい感触。無機質な感触。さらにもう一度柄を強く握り、数ミリだけ肉に食い込ませる。痛覚がちくりと反応する。びくりと肩が震えるが、我慢。もっともっと、手を首へと近づけてみる。その切っ先が、肌をわずかに引きちぎる。ぷっ、という小さな音が聞こえた。刹那――――ぷしゅるるるるる、と鮮血が自分の首から噴出。目の前に、赤い噴水が湧き上がるのが見えた。眼前が真っ赤だった。気持ち悪かった。気持ち悪いほど綺麗だった。鮮やかだった。髪が、頬が、服が赤く染まるのが見えた。気が遠のいていく気がした。夢に落ちていく感覚がした。視界が白くなっていく気がした。力が抜けていく気がした。

 リーネの腕の動きがぎくりと止まる。冷たいものが背中を伝う。手の平にじとりと汗が滲む。はあ、はあ、と息が荒くなる。

 実際は、白い肌に、たらりと、赤い筋が描かれただけなのに。

 ――い、痛い、怖い、怖い、怖い…………こ、怖い? な、なぜ? なぜ? 今まで、何度も命がけで戦ってきたじゃないか? 死ぬ気で戦ってきたじゃないか? 大怪我をしたことだって何度もあったじゃなか。なのに、なのに、なぜ、なぜ、今さら怖い、怖がる? 戸惑う? 躊躇する?

 リーネは再度、その振動を必死に食い止めるかのように、強く柄を握りしめた。

 そしてぎゅっと目を閉じる。

 ――もう少し、もう少し手を動かせば、それで終わる。それだけで、終わる。

 そう思い、そう自分に言い聞かせ、奥歯をぎりりと噛みしめる。その時――――リーネの頬に、一つ、滴が垂れた。

「……あ、あれ?」

 リーネはその冷たい感触に驚き、再度上ずった声を上げる。

 今度の声は、震えていた。

 その滴は目尻から伝っている。

 涙だった。

 兄と父に精霊使いになることを真っ向から反対された日以来の涙だった。兄に最初で最後、殴られた日以来の涙だった。リーネにとって五年三ヶ月十八日ぶりの涙だった。その日の夜に立てた、精霊使いとして生きていく限りは決して泣くまいという誓いが破れた涙だった。

 戸惑いの涙だった。

 悲しみの涙だった。

 恐怖の涙だった。

 嬉し涙では、なかった。

 ――ああ、そうか。このことだったのか。兄が父が、ワタシを殴ってでも止めようとした理由はこれなのか。こういう結末だったのか。今さらながら理解した。いくら命がけだと何度も叫んでいても、やはり……やはり、思ってしまう。なぜ、ワタシはここで、こんな場所で、この心と体を放棄しなければならないのか、と。必死に生きてきた十七年を終わらせなければならないのかと。血にまみれた、こんな汚い死体を晒さなければならないのかと。アキオともっと遊びたかった。スズランさんに勝ちたかった。小林さんと藤沢先輩にお礼も言いたかった。兄さんにもパパにもありがとうを言いたかった。のに、のに、のに、それはもう、叶わないのか。こんなすぐに、こんなあっさりと、諦めなければならないのか……。あるいは母も、同じような涙を流したのだろうか……。

 先刻から聞こえ続けているジェックのまじないは、終盤に差し掛かっている

 残すところ、あと、十秒。

 ――しかし、これは、人を守るということ。これが、これこそが、人を守るということ。お母さんがワタシたちを守ってくれたのと同じこと。ワタシも、家族を、アキオ達を守る。そのための行為。そのための手段。だから、これは正しい、これは正しい、これは正しい、これは正しい、これは正しい、これは正しい、これは正しい、これは正しい、これは正しい、これは正しい、のだ……

 ――怖い、けれど

 リーネは大きく息を飲む。

 ――痛い、けれど

 そして、大きく息を吐いた。

 ――十七年しか、生きられなかったけれど。

 リーネは全身全霊の力を込めてナイフを握りしめ、

 ――思い残すことは、あるけれど。

 十数センチ上に振り上げ、

 ――さよう、なら。

 そして勢いよく、自身の首元へと――



 ――ドゴォオオオオオオオオオオオオン!



 轟音が、空から降ってきた。

 天井を破り、床を叩き、砂ぼこりを高く巻きあげる。

 その風圧で、如月ジェックの体が吹き飛ばされたのが、かろうじて見えた。

 しかし、もはやそれ以外は見えない。

 灰色の煙で、リーネの視界は完全に閉ざされている。

 もうもうとする空気の中、数秒待って、しだいに視界が晴れてきた。

 少しずつ前方が見えてきて、その中心に立っていたのは、リーネの高校の女子の制服。リーネより少し低い上背。小麦色の散切り頭。その女子がくるりと首を振り返り、その顔が見える。まるで人形のような、整いすぎた顔立ち。神々しいほどに白い肌。そして心持ち不本意そうな表情の――


「――『死の精霊』が、鞘河スズラン。主の命により、馳せ参じ候……」

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