第十九話「策」
藤沢と別れ、二つ目の扉を開いた後、リーネがたどり着いたのは洋風のリビングだった。
マークリードと合間見えた部屋と同様、白い壁に絨毯の敷かれた床という造りだったが、そこよりもさらに広い。壁際には彩りの豊かな皿が飾られた棚があり、部屋の隅には豪奢なテーブルが置かれている。天井の中心からはシャンデリアがぶら下がっている。リーネをしても、映画などでしか見たことがないような内装である。
如月ジェックは、戸棚を漁っていた。
肩越しに彼が取り出しているものが見えるが、それはハンカチであったり、財布であったり、常備薬であったり。そのような小物を、肩に掛けたチェックのカバンに入れている。これから外出をする身支度をしているようにしか見えなかった。
ふと、如月ジェックはリーネに気付いたように、首だけ振り返ってきた。そして世間話でもするような語調で、
「やあ、来たのか。東の者」
そう言いながら、カバンを棚の上に置く。
「やれやれ……。ここまでしつこいと、呆れるというか、吐き気がしてくるね。……大体、なんだい、君をここまで連れてきたあの男は? やけにタイミングよく登場するし、あの地下道の迷路をすいすい進んでいくし。まったくわけがわからない。カメラ越しに見る分には、ただの素人にしか見えなかったけど。……あいつぁ、一体何者なんだ?」
「さぁ?」
リーネは肩をすくめた。
「高校の先輩ですが、それ以外は何も。……むしろこっちが聞きたいくらいです」
「なんじゃそりゃ」
ジェックは頬を引きつらせ、苦笑を造る。
「……まあ、いいや。そっちの用件はわかってるし、さっさと初めて、さっさと終わらせよう――――結局、俺ともう一度殺し合いをしたいってだけなんだろ?」
「ええ、もちろんです――――しかし……ふん、やけに切り替えが早いですね。自分のトラップが失敗に終わったばかりだというのに」
「…………失敗?」
ジェックはきょとんとした表情になり、首をかしげる。そして眉間にしわを寄せ考えるような顔になった後、「……ああっ」と表情を和らげて、
「あの吊り橋のトラップのことを言ってるのかい? そりゃまあ、確かにお前が生きながらえたのは誤算だったし、それはそれで失敗ではあったけれど――――でもな、思い上がるな」
ジェックの瞳にぎらりと侮蔑の光が宿る。
「お前を殺すのはついでさ、つ・い・で。俺がわざわざ洞窟くんだりをあそこまで行ったメインの目的はそれじゃない。あれの目的は別にある」
「…………別?」
「そうだ――――あれはな、『藁人形』をここで来させないためのものさ」
ジェックの苦々しげな発言。
それを聞き、リーネは引っかかりを覚える――――来させないため? いや、それはおかしい。さっきの土の精霊の言い方からして、『藁人形』を待ち望んでいたのはこの如月ジェックのはず。彼との対面はこの男の望みだったはずなのに。……そう言えば、今の如月ジェックは、出掛ける準備をしていたし。これは、まるで――
「――まるで、『藁人形』から逃げるような物言いですね」
――ジェックの額にぴくりとシワが寄る。
「なぜですか? あの土の精霊の話では、あなたは『藁人形』を宿敵と目していたのではないですか? 彼を恨んでいるのではないですか? 彼を殺すことを目的としていたのではないですか? 恐らく、あなたが今回日本に来たのも、彼を殺すためだったのでしょう? それを、なんで、今さら、逃げるって……」
「……事情が変わったんだよ」
如月ジェックは吐き捨てるように言う。
「俺の見込み違い。それだけだ。それだけの話だ。……ったく、あそこまでとは。思いもしなかった。あんなのに勝てるわけがねぇ。ヤバいって。ヤバすぎる。ヤバいにもほどがある……」
愚痴をこぼすような如月ジェック。
これを聞き、リーネは何となく事情が読めてきた――――つまり、小林雑音が土の精霊の勝ったということだ。それも、圧倒的な力量差で。それをカメラか何かで見たこの如月ジェックは、『藁人形』の評価を改めたのだ。そして焦っているのだ。
「だから、俺はさっさとお前を殺して逃げなきゃなんねえ。時間がないんだよ。ほれ、さっさとかかってこいよ。秒殺してやるから」
人差し指を動かして挑発してくるジェック。もはや構えることもせず、片手間で終わらせるような雰囲気である。
それを見て、リーネは思う――――確かに、ワタシはここまで軽んじられても仕方がない。先刻の勝負はその程度のものだった。この男にかすり傷すらつけられなかった。ついさっきまでは、小林雑音の到着までの時間稼ぎしか考えられなかったくらいなのだ。
――しかし
しかし、今は違う。きちんと自分の手で終わらせるつもりだ。私自身でこの男に勝つつもりだ。小林雑音がここにたどり着けないなら、なおさらだ。
「……いざ」
低い声で呟きながら、リーネはスカートのポケットから短刀を取り出す。
その短刀を目にしたジェックは、
「おや?」
意外そうな表情になる。
「……なんだ? そりゃあ、さっきビルの屋上で見たのと同じ短刀だけど――――でも、さっきはそれに何か術がかかってなかったっけ? 『能力封印』みたいな。そんな気配がしてたはずだけど。今のそれには何もかかってないみたいじゃないか。それじゃ単なる妖刀だ。威力半減もいいところだ。……もしかして、かけ忘れたのか? だったら、少し待ってやろうか?」
「……結構です」
頭が一瞬白くなったが、冷静に冷静にと自分に言い聞かせながら、リーネは言い返す。
「これに術がかかってない理由は、まあ、そのうちわかりますよ」
「そうかい」
どうでもよさそうに相槌を打つジェック。
リーネはそのジェックを睨みつけ、上体を屈め、そして――――思い切り地面を蹴る。
初速からトップスピードで駆け出し、五歩でジェックの眼前に到る。そしてそのまま右足を振り上げ、ジェックの脇腹へ向かって蹴り出す。
短刀を注視していたジェックは一瞬存外そうな表情になり、リーネの右足へと視線を移す。
それを見て取ったリーネは脚の動きをぴたりと止め、そのままの体勢で、右手に握った短刀をジェックの首元に向かって投げつけた。
その二つのフェイントに、ジェックは驚いた表情になる、が――
――ぴたり
リーネの体が『停止』、そしてジェックの首わずか三ミリのところまで近接した短刀も、空中で『停止』した。
ジェックはふっと息を吐き、
「……なるほど、確かに、短刀に『能力封印』の術が施されてなければ、俺の勝負における緊張感は半減する。その隙をつけば、、俺の『時間停止』の能力が発動するまでにさらに俺に近づけるというのは事実だけれど――――ただ、やっぱり甘いね」
ジェックは宙に浮いたままの短刀を掴んだ。そして、右足を振り上げたままのリーネに近づき、短刀の先端をリーネの右脇腹にあてがい、
「俺とお前の実力差は、そんなもので覆るわけはない」
ふふんと嘲るジェック。
動けぬまま、その表情を視界の端に捉え、胸が熱くなるのを感じるリーネ。感情に任せぐぐぐと四肢に力を入れようとするが、動かない。どころか、力すら入らない。視認と思考以外、リーネの体は時間を停止しているのだ――――と、いきなり、
体が自由になる。
そしてその突然の事象に驚いた刹那、
――ザクリッ
脇腹に熱い感覚が走る。次いで痛覚が悲鳴を上げ、地面に伏し、自身の腹部を見て、リーネは認識する――――自分の脇腹に、短刀が深々と突き刺さっていることに。
脇腹に付随している短刀。その木製の柄に赤い雫が伝い、ぽたりぽたりと床に紅の模様を作り出している。同時に、白いシャツにできた丸い染みも、刻々と広がっていく。
「ははは、今度こそ決まりだ」
ジェックはリーネを見下ろし、ポケットに手を入れ、肩を揺らしながら笑った。
「こんなところまで来てもらって、結局こんな結末とは。わかりきってたことだけど、ご苦労なことだ。さあ、これでお前の苦労も終わり。安心して召され――――ん?」
ジェックは急にがくりとバランスを崩す。驚いて足元を見下ろすと、リーネが床に突っ伏したまま、ジェックの足首を握っている。
ジェックはやれやれと首を横に振りながら、
「まったく、見苦しいな」
嘲笑を浮かべながら、振り払おうと足を蹴り上げようとした、が――
「――え?」
ジェックの表情が驚愕に固まる。そしてそのまま――――微動だにしない。微動だに〈できない〉
「……うっふふ」
俯いているリーネが笑い声を上げた。次いでブロンドの髪を揺らし、ついと顔を上げ、
「……かかりましたね」
笑みと共に言った。