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プロローグ

※※※

本作は『殺し屋殺しの藁人形』及び『スズランとマイナス』の話を完結する物語ですが、これらを読まれていなくても楽しんでいただけるよう、気をつけております。逆にネタバレを含んでしまっておりますので、ご了承ください。

 鞘河望さやかわのぞむ――黒髪で眼鏡の少年。超優等生、天才。アメリカの名門セントゲート高校に通う一年生。


 如月きさらぎジェック――小学校の頃の望の同級生。こげ茶の髪にベースボールキャップをかぶった少年。中学からアメリカに渡っていたのだが、数年ぶりにアメリカで望と再会し、最近は時々会うようになっていた。


 カリフォルニアのとある喫茶店の奥の席で、顔をつき合わせて日本語で話しているこの二人についての説明は、現時点ではこの程度で十分だろう。ここで彼らの半生をちくちく語るのはナンセンスというものである。あるいは冗長――――または、野暮と言ってもいいかもしれない。その程度の――――もしくはそれ程のことである。

 カップを口に持っていき、ブレンドコーヒーを口に含んだジェックは、

「まあとりあえず、大学入学決定おめでとう、ノゾム。飛び級とは驚いたよ」

「ありがとう。……でもアメリカじゃあ、飛び級なんてそれほど珍しくもないだろ? 最近日本でも増えてきたみたいだし」

「絶対数と確率の話を混同するなよ」

 ジェックは含み笑い。そしてコトリッとプレートの上にカップを置き、

「いくら実例があったとしても、それに選ばれるっていうのは依然として確率が限りなく低いことだ。素晴らしいことだ。……ハハッ。君の両親も鼻が高いだろう?」

「だろうね」

 望は鼻で笑いながらスプーンをつまみ、紅茶に砂糖を流し込んだ。

「あの二人が喜ばないはずはないさ。逸脱した場所でさらに優秀な成績を残す。そのために僕らは、わざわざアメリカに来たんだから――――ただそんなのは、僕にとってはどうでもいいことさ」

「……どうでもいい?」

「ああ。母さんが喜んでも、父さんが喜んでも、ばあちゃんが喜んでも、じいちゃんが喜んでも、僕にとってはどうでもいい」

「……へえ」

 感嘆しつつ、ジェックは興味深げな顔を望に向けて、

「じゃあ、君は一体誰に喜んでもらいたいんだ?」

「兄さんだよ」

 望はジェックの顔を真っ直ぐ見て、力のこもった声で答えた。

 ジェックは首をかしげて、

「兄さん? ええと……今は日本にいるっていう、君の兄さんかい?」

「ああ。亜紀雄兄さんだ」

 紅茶をスプーンでかき混ぜながら、望はこくりと頷く。

「もしあの人が喜んでくれたら、あの人の喜ぶ顔を見ることができたら、その瞬間にこそ僕は達成感を感じる。喜びを感じる。幸せを感じる。それ以外は――――どうでもいいことだ」

「ハハッ。何だい、そりゃ?」

 高笑いしてジェックは肩をすくめた。

「別にノゾムは、その人の世話になってるわけじゃないんだろ? その人に生活資金を貰ってるわけじゃないんだろ? その人に住む場所を与えられてるわけじゃないんだろ? その人に食事を作ってもらってるわけじゃないんだろ? その人に服の洗濯をしてもらってるわけじゃないんだろ? その人に部屋の掃除をしてもらってるわけじゃないんだろ? しかも、その人とはこの二年間、一度も会ってないんだろ?」

「そう、そうだ」

「しかも――――前話してたじゃないか。君の兄貴は君と比較され差別されて、よくよく惨めな思いをさせられてたんだろ? 親戚連中からも蔑むような眼で見られてたんだろ? 君の存在のせいで肩身の狭い思いをしてたんだろ?」

「そうだ。その通りだ」

「だったら――何でだ? そんな境遇じゃ、もはや君と君の兄貴は仲違いしててもおかしくないじゃないか。君が嫌われ疎まれて、疎遠になっててもおかしくない。なのに何でまた、アメリカで世話してくれている両親よりもその人の方が大切なんだ?」

「そう、確かに――」

 望は紅茶をコクリと一口飲んで、

「――確かに、兄さんは僕のせいで苦しんでた。悲しんでた。夕飯のおかずが僕の方がやたら多かったことなんて数え切れないし、僕の方がお年玉を倍くらい貰ってた。僕が花瓶を壊した時も弁明する暇もなく兄さんが怒られてたし、僕がいじめられて怪我したときは兄さんが僕を守らなかったことを責められてた。成績でもそれ以外でも、毎日ちくちくといびられてた。僕が風邪を引くと母さんは付きっ切りで看病してくれたのに、兄さんのときは友人と買い物に出掛けてた。兄さんよりも僕の方が誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントも大きかった。テレビはいつも僕が好きなのを見ることができてた。祖父母に撫でられた回数も僕の方が数倍多い。名前を呼ばれた回数だって数十倍多い。僕の方が千円くらい小遣いが多かった」

 ここで望は二口目の紅茶を飲み、

「僕が主張すれば、兄さんのことを度外視してまで、全部が全部僕の希望のままになった。そんなことはいくらでもあったさ。数え切れないほどあった。そして――――その度に、兄さんは悲しそうな目をしてた。悔しそうな目をしてた。切なそうな眼差しで僕の方を見てた。兄さんが僕に好感を持っていないのは確かだろう、真実だろう、現実だろう――――でも、でもだ」

 望はカップをテーブルに戻した。そして前かがみになり、語気を強めて、

「あれは、僕が小学校五年生の時。兄さんと一緒に下校してる途中に、僕らは野良犬に襲われたんだ。別にその犬をいじめたわけでもないのに、いきなり吠えわめいて僕らの方へ走ってきた――恐らく狂犬病だったんだろう――もちろん、僕と兄さんは一目散に走って逃げた――――けど、当然ながら犬の方が走るのが早い。僕はあっという間に追いつかれた。野良犬が目の前に迫って、僕が噛まれるのを覚悟したその時、思わず眼をつぶって、腕で顔を庇ったその時――


 ――兄さんが僕の目の前に立って、庇ってくれたんだ。


 僕の盾になってくれたんだ。僕の代わりに噛まれてくれたんだ。体を張って僕を守ってくれたんだ。――――僕は、その時の兄さんの背中を忘れない。噛まれて血まみれになった右腕を忘れない。僕の方を振り返り、『大丈夫か?』と聞いてきた兄さんの微笑を忘れない。忘れやしない。忘れられない」

 望は物語りを締めるように、息のような声で説明を終えた。

 その説明を聞き終えたジェックは、「ふむ」と頷き、

「……いや、確かにその話は美しいけどさ、でもそれは、単に君の兄貴も『ここでノゾムを守らなきゃ後で怒られる』っていう打算で守っただけなんじゃないのか? 計算だったんじゃないか? そんな、兄弟愛とか関係なくてさ」

「まあ、その可能性もあるね」

 望はふっと息を吐いて、

「でも、それは関係ないんだ。そこが問題じゃないんだ。僕が嬉しかったのは、『僕を見捨てて逃げる』っていう選択肢があったにも関わらず、それでも兄さんが僕のことを守ってくれたことだ。『僕を守る』という選択をしてくれたことだ。…………大人達は、確かに僕を大事にしてくれるけど、それは僕を大事にすればそれだけの結果が見込めるっていう確信があるからだ。失うものも特になく、僕に優しくした方が得だからそうしてるだけだ。迷うことなく、悩むことなく、選択したわけじゃなく、選んだわけじゃなく、元から見えてる道を辿ってるだけだ。そんなの、感謝はしても嬉しくはない。ありがたくても、喜ばない。幸せを感じたりしない。僕が本当に嬉しいのは――


 ――二つの選択肢の中で、僕を選んでくれたこと。

 ――悩んで迷って、それでも僕を選んでくれたこと。

 ――僕を守る選択をしてくれたこと。


 この十六年の中で、僕にそんなことをしてくれたのは――そういう風に僕のことを選んでくれた人は――兄さん、ただ一人だ」

「なるほどね」

 ジェックは納得したように頷き、帽子の上から頭をかいて、

「何となくしか分からないけど――――何となく分かったよ。つまり君は、兄貴がこの世で一番大切だと、そういうわけだ」

「ああ、そうだ。……正直僕にとって、兄さんは恋人よりも大切かもしれない。兄さんが『来い』と言うならすぐに兄さんの側に行くし、『行け』と言われたらどこへでも行く。兄さんと一緒ならどこでも生きていける。兄さんを守るためならこの身を投げ出すし、兄さんが死ねといえば喜んで死ぬ。――――極論を言えば、兄さんがそういう趣味なら、兄さんを愛することもいとわないさ」

「……ハァー? 何だそりゃ?」

 ジェックは気味悪がるように、思い切り苦い顔をする。

「おいおい。そこまでいくと異常じゃないか? 犬から守ってもらっただけなのに、命懸けなんて。……何だ? これもブラコンの一種なのか? 男のブラコンなんて聞いたことない。お前と知り合って八年経つが、今さらお前のことが分からなくなってきたよ……」

「はは。そうか? 僕は小学生の頃からずっとこう思ってたんだけどな」

「……そうか、そうなのか。じゃあこれは、別れの前にお前の本質を知ることができて運がよかったってことになるのか? それとも悪かったのか?」

「…………別れ?」

 思いがけない単語に、望はきょとんとした。ずり落ちた眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、

「何だよ、それ? 聞いてないぞ。数ヶ月ぶりに会ったっていうのに、いきなり『別れ』なんて?」

「ああ――――実は俺、日本にいくんだ」

「日本に?」

 裏返る望の声。目を丸くして、

「…………いつから?」

「明日出発する。だからさ、合格祝いも兼ねてお前に一目会っておこうと思ったわけだ。しばらく会えなくなるからな」

「はー、そうなのか。……というか、日本に何しにいくんだ?」

「ん? ちょっとな――」

 口元を歪めたジェックは、怪しいほどに、妖しいほどに、不気味なほどに悪戯に笑って、帽子のツバを深くしながら、


「――仕返し」

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