死神と少女と新月と(6)
お久しぶりな感じになりました。
「ヤァ,お嬢さん。」
いつものように散歩がてらに裏山を歩いていた時,何者かがそう声をかけてきた。ちょっと鼻につくような,すましたようなそれでいてどこか下卑ている,だのに品はある,その割に妙に腹立たしい,何とも言えないしゃがれているのに通る男性の声。思わず私の肩はぎくりと震えて固まった。振り向くこともできずに冷や汗が頬を伝っていく感覚をたっぷりとねっとりと味わっていると,その声の主と思しき影と気配が私のすぐ背後まで迫ってくる。
「怯えているのだね,分かるヨ。普段誰もいないこんな森の中で声をかけてくる男なんて普通はいないからネ。」
「……っ。」
「あぁ.あぁ,よく見えるネ。君が魂全部でこの私を嫌悪し,心底怯えているのがよぅく見える……。そんなに私が怖いカイ?そんなに私が恐ろしいカイ?」
「……。」
ぎ,ぎ,と機械が軋むような,油の足りない乾いたようなぎこちないノイズ。あぁ,どうかこのまま私を放っておいてくれないだろうか……なんてことを考える。どこか身近に知ったような,けれどそれとは明らかに異なる異質な空気。これは昔どこで感じた空気なのだろうか。そんなことはどうでもよくて,これがまずい展開であることくらいいくら私が世間知らずだったとしても,わかっている。この後に起こるであろう最悪の展開を嫌でも想像することができる。このままは非常にまずいことだけは,それこそ,彼の言葉を借りるなら,魂全部で自覚している。わかっているのだが,困ったことに脚がピクリとも動かない。まるでその場にがっちりと根を張ってしまったかのようで,地面から離れすらしない。関節も長年風雨にさらされて錆びついてしまったいたブリキ人形のように動かない。そんな私に,ひやりと背筋を凍らせるような空気が背中から迫ってくる。
そして。
「何がそんなに恐ろしいのカイ?」
「…………!!!!」
男の指が,手が,私の両肩をいっそ恐ろしいほど優しく包み込んだ。強すぎる力でもないが,だがそれでも私をそこから身動きできないようにするには十分すぎるほどの力。
「あぁ,知っているんだネ,死神に魂を見られることの恐怖をサ……?死神に魂を掴まれたモノの辿る末路を知っているんだネ……?」
男の吐息が首筋を撫でる。生暖かく,けれど生きている人間の物とは思えないほどには冷たく,何の匂いもしないのが逆に気持ち悪くなりそうな吐息。
それより……死神ですって……?
私の脳内は男の発したそのたった一つの言葉に停止させられていた。この男は死神の存在を知っている。しかも,彼らのできる事,彼らの持っている能力を知っている。彼ら死神に魂を狩られた人間がどうなるのかまでも,彼は知っている……?
「あぁ,私も知ってるヨ,死神の存在は貴く尊いものダ……人間との協定など本当はどこにもいらないのダヨ……」
興奮したような声音で男はキシキシと身体を揺らして笑う。私の肩の上に置かれた手に感極まったように力がこもる。肩の骨がみしっと音を立てた気がしたが,気にしないことにした。それどころではない。
「100年以上前のあの時も思ったけれど,彼ほどの死神が君みたいな少女と協定を結んでいる理由が私には全然さっぱりわからないネェ……?」
「っ…スレアッ!!!!」
その言葉を聞いた瞬間,私の身体がはじかれるように動いて,固まって冷え切っていた喉から驚くほど大きな声が出た。何を期待したわけでも,助けに来てくれるとも思っていなかったが,何を思ったか私の口からは彼の名前が飛び出した。だが,私の期待は想定外にも裏切られた。
一陣の風。男の手が私の肩から離れると同時に,よく知った感触の手が私の肩を抱いた。そのまま音もなくふわりと抱き上げられる。
「申し訳ありません,我が主。お怪我はございませんか?」
「……来るとは思わなかったわ。」
相変わらず物腰丁寧で,甘く柔らかい声が私の身体から過度の緊張を奪っていく。無意識のうちに彼の腕にすがりつくと,彼のしなやかな腕が私の肩を優しく抱き返してくる。
「主をお守りするのは,我々の責務ですから。馳せ参じるのが遅くなってむしろ申し訳ない限りです。」
「これはこれは。ご本人が登場するとはネェ。私にはますますわからないよ,君ほどの死神がここまでする理由がサ……?」
「失せろステル。貴様はこの場所に用はないはずだ。」
「オヤオヤ冷たいネェ,久しぶりの邂逅だっていうのにサア?」
「今すぐ消えろ。この場で貴様を灰に還すこともできるのだぞ。」
「おっかないおっかない。」
抱き上げられた腕の中から見たその男は灰色のマントに,骨のように細く白い四肢,妙ににたにたと笑っている口元以外は何も見えない顔。明らかに普通の人間ではなさそうな事だけは,一瞬でわかった。その次の瞬間には男の姿はろうそくを吹き消したかのように刹那を待たずに掻き消えた。
「我が主,お怪我はございませんか?」
「……大丈夫。……なんだったの,今の。」
「死神・ステルベン。我らの同胞でございます,我が主。」
私を先ほどの男が私に向けたのとは逆反対の優しさで抱き上げたまま屋敷の方角へ足を向けつつスレアが答える。少し慌てたような,憔悴したような表情でいるところをみると,今のこの状況は本当に冗談にはできないほど切羽詰まっていたのだと改めて感じさせられた。
それをよそに彼は話を繋げる。
「本来ならば彼は我々死神を統べている総統様の膝元で,直属の書記として働いているはずなのですが,本人が随分変わった性質を持っていまして,その異質さゆえに死ノ国を追放され,生きることもできなければ死ぬこともできず,死ノ国に帰ることも許されなければ別の国へ行くことも許されていない,ただただ当てもなくこの世界をさまよい,最後に朽ち果ててやがては死ぬだけの永久追放の身となりました。」
いくつか聞きたいことが出てきたがそれを一気に聞くよりも聞きたいことが私にはあった。
「その,ステルベンがなぜ私の元に……?」
「……そうですね。可能性としては私に主殺しの罪を負わせたいのでしょう。」
「主殺し……?]
私の問いかけにスレアは憂いを帯びた瞳で頷いた。
彼曰く,死神は魂を狩る為に作られているのだが,その中にも序列があるのだとか。序列の高い者ほどこの人間の住む世界で出来ることが増えるのだと言う。序列の低い者は人間界におりてくることすら許されない。そうなると,死神としての役割がいずれ果たせなくなり,やがて一掴みの灰となって永久に死ノ国に閉じ込められることになる。スレアは序列としては最高ランクにあるらしい。それ故に,他の死神から狙われることが多いのだとか。
「主殺しは,死ノ国では最高刑に処される……つまり,一掴みの灰となり死ノ国に永久に閉じ込められる運命を,生まれ変わる事すら許されず背負うことになるのです,我が主。」
「けれど,あなたたち死神なら誰が殺したのか,わかるんじゃないの?ステルベンが私を殺しても,それは彼のしたことになるんじゃないの?」
「いえ,そうはいきません。以前,私は主の魂に手出しはできないと話したことを覚えておられますか?我が主。」
「……なんとなくなら覚えてるわ。」
「一度だけ,貴女の魂に手を出すことができる条件があるのです,我が主。」
「……どういう事?」
「他の死神に貴女の魂を取り出されたときです。」
「……どういう事か,説明して。」
彼が渋りつつも語った話は大まかにこんな感じだった。
死神・執行人は人間の魂を具現化して,物理的破壊をすることで相手を地獄へと送り返す。その具現化は,実は一方通行である。魂を取り出されたら最後,それを体内に戻すことは叶わない。しかし,長時間魂を体外に出しておくことは,取り出された人間の悪鬼化を招き,時には町が一つ二つ地図の上から消えるほどの被害を出す事になる。それを未然に防ぐためにも,一度取り出したら最後破壊するしかなくなるのである。
ところが,死神の契約者の魂が契約相手以外の死神に取り出された場合はそう単純にいかない。契約した死神が手を出せないのは『主の魂を取り出す』段階であり,取り出されてしまえば破壊することができるのである。魔力の供給は段階を踏めば自分の意志で,自分に害を及ぼすことなく断つことができる。破壊の前段階が禁じられていることで,死神自身が主の魂を破壊できない仕組みができているのだという。
一方,取り出した死神はもちろんその場で破壊することができる。ところが,ここにもう一つ問題がある。他の死神の契約者の魂を取り出した場合,それを破壊することは彼らの暮らす死ノ国では規則違反となるのだ。契約者を殺された死神は,魔力の供給源を強制的に断たれるため,自身を保つことができずに消失する。一方,取り出した死神が契約者の魂を破壊すると,契約相手の死神の力の暴走を浴びて,こちらも消失してしまう。以前,大きな戦争があった際,多くの契約者が死神の手によって殺されたことがあったらしく,その結果多くの死神が命を落とした。その影響で一時期人智の及ばない領域のこの世の理が回転しなくなったことがあったとか。それを防ぐために死ノ国は先述のような規律を作ったのだとか。
「……しかし,取り出してしまった以上魂を長時間外に出しておくことができない,ところが戻すこともできない。その時,どうしたら良いと思いますか?」
「……なるほどね。」
その先のことはわざわざ彼の口から語られずとも察しがついた。すべてを丸く収めるために,死神自身が契約者の魂を破壊する事になるのだ。
「意図的な主殺しは一生死ノ国の最下層に閉じ込められ,すべての権限を剥奪され,やがて灰となるために朽ち果てていく罰を負うのです。同時に,序列の高い者がその罪を犯せば,自動的にすべての序列の繰り上げが行われるのです我が主。」
「それならステルベンに利は無いんじゃないの……?追放されているんでしょう?」
ところがスレアはゆるゆると首を振った。
「追放された彼自身に利はありません,我が主。ですが,彼の弟に利があるのです。私の序列が繰り上がると,彼の弟が最高序列に組み込まれることになるのです。そうなると,彼の弟は,彼を死ノ国に呼び戻すだけの権限を持つことになるのです,我が主。ステルベンをそれを狙っているのでしょう。」
「なんだか,人間界と大して変わらない利害関係でもめてるのね,死神も。」
私の言葉にスレアは苦笑いをこぼした。
「貴女が思われているより,私たち死神は貴女と同じような感性を持ち合わせているのです,我が主。だからどうか,その私に貴女を殺させるなど,むごいことをさせないでくださいませ,我が主。私のように卑しい存在でも,貴女様が愛おしいのでございます。」
スレアが腕の中の私の目を見つめてそう呟く。それは,不思議なほど純粋で,まっすぐな瞳で。少年のような,純真さ。
初めて出会った時に感じた胸の温かさが私の身体を満たしていく。私は返事もせずに彼の首にそっと縋り付いたのだった。
落としどころなどないのです。ちょっと長くなりすぎました。