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【短編】或る女の生涯 〜それはまるでいくら丼のような〜

作者: Maya Estiva

 夜の定食屋は、昼の喧噪を忘れたように静かだった。

 カウンター席に腰掛けるのは、私ひとり。

 壁の時計が、午後九時を指している。


「いらっしゃい。いくら丼でよかったね?」


 女将の笑顔にうなずき、私はハンドバッグを足元に置いた。

 出された湯呑みの温もりに指をかけながら、待つ。


 やがて運ばれてきた丼。

 白いご飯に散らされた紅い宝石。

 その輝きを見て、私は少しだけ胸が痛んだ。


 いくら丼なんて、何年ぶりだろう。

 若いころ、恋人と一緒に食べた記憶が蘇る。

 大学の近くの海鮮丼屋で、彼は笑いながら言った。


「いくら丼は人生と同じさ。いくらがなくなるのを恐れて少しずつ食べたって、結局は白米だけが残る。なら大胆にいくらを味わった方が、後悔せずに済むんだよ」


 その時は何を言ってるんだろうと思った。

 けれど、今ならわかる。

 あれは、私の未来を暗示していたのかもしれない。


 私は箸を伸ばし、いくらをひと粒、舌に乗せる。

 ぷちり、と弾ける音が口内で広がる。

 塩気と旨味。

 瞬間に消える儚さ。


 四十を越えた今、私は未婚のままだ。

 もう結婚は諦めた。

 仕事は続けている。

 人並みの暮らしはできている。

 けれど、同窓会で子どもの写真を見せ合う友人たちの中に立つと、味気ない白米のような『無』が広がるのを感じる。


 若いころは『自由』を信じていた。

 恋人と別れても、男だけが人生じゃないと考えた。

 仕事に没頭すれば、ひとりでも生きられると。


 けれど、その『自由』は甘美でありながら残酷でもあった。

 なぜなら、選ばなかった責任も、結局は自分の肩にのしかかるからだ。


 いくら丼を前に、私は妙な思考にとらわれる。

 これは私の人生そのものではないか。

 妙なプライドなど捨ててもっとガムシャラに恋愛や婚活に取り組めば、違う未来があったかもしれない。


 けれども私は、まるでいくらを少しずつ食べるかのように、恋も仕事も安全策ばかりを選んだ。

 結果、気づけば紅い宝石は消え、私の人生には白米ばかりが残っている。


 皮肉だ。

 自由に選んだはずの人生が、最終的には『選択しなかった責任』の塊になっているなんて。


 隣の席から、視線を感じた。

 六十代くらいのおじさんが、こちらをちらりと見ている。

 妙な食べ方をしている女だと思ったのかもしれない。


 その視線にさらされた瞬間、私はどこにでもいるくたびれた女ではなく『見られている対象』に変わった。

 途端に、頬が熱くなる。


 いくらと白米をバランスよく配分しようと必死になる自分。

 それを見られる恥ずかしさ。

 まるで過去の人生を覗かれているようだ。


 いくらが残り少なくなる。

 焦った私はいくらを掬いすぎ、赤い粒は一気に消えた。

 取り残される白米。


「しまった……」


 思わず声が漏れる。

 次の瞬間、心に言い訳が芽生える。


 ――最初からいくらが少なすぎたのよ。

 ――店がケチったせいだわ。


 いや、違う。

 箸を動かしたのは、私だ。

 食べ方を選んだのも、私だ。

 それは他の誰のせいでもない。


 白米だけを口に運ぶと、しんとした味気なさが広がる。

 それは『無』の味。

 思わず、言葉が溢れる。


「結局、これも私の人生か……」


 すると隣のおじさんが笑いながら言った。


「姉さん、アンタすごく深刻そうに食べてたけどさ」


 彼は壁を指さす。

 私は振り返った。

 そこには大きな張り紙があった。


『いくら、おかわり自由!!』


 頭が真っ白になった。

 なんなんだこのあり得ない太っ腹なサービスは。

 あんなに悩み、自己の選択の責任を引き受け、その後悔まで味わったというのに。


「お客さん、いくらおかわりする?」


 女将の声が飛ぶ。

 私はしばらく箸を握ったまま固まっていた。

 そして苦笑しながら答えた。


「……最初から教えてほしかったわ」


「こんなに目立つ張り紙に気づかないなんて、アンタ相当疲れてたんだな」


 おじさんが吹き出し、女将も笑った。

 私は、自分でもおかしくなって、声をあげて笑った。

 その笑いには、わずかな悔しさと、どこか解放された安堵が混じっていた。


 いくらはまだある。

 人生も、まだ終わってはいない。

 紅い粒が尽きた丼の底には、まだ温もりが残っていた。




fin.

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