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解放  作者: 爆竹
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第一章-壊れていく日常5

かすれる声

その日も、また沈黙の夜だった。


食後、食器を洗っていると、背後から香梨奈の足音がした。


「……ねえ」


小さな声が、背中越しに聞こえた。


私は、手を止めなかった。


水道の音に紛れて、その声は、かすれて消えそうだった。


「話、したいことがあって」


私は無言で食器を洗い続けた。


頭のどこかでは、耳を傾けなければと思っていた。


けれど、心がついていかなかった。


冷たくなった皿の感触だけが、やけに現実的だった。


背後で香梨奈の気配が揺れる。


短い沈黙のあと、足音がゆっくりと遠ざかっていった。


逃げているのは、私の方だった。


本当は、話したかった。


何を思っていたのか、なぜ、あんなことをしたのか。


そして、今この瞬間、私たちはまだ夫婦と呼べるのか——


でも、その問いを口にした瞬間、

すべてが崩れてしまう気がした。


香梨奈の口から出るどんな言葉も、

きっと私の心を、もう一段深く壊してしまう。

その予感が、喉を塞いだ。


わかっていた。


何も言わず、何も聞かずにいる限り、

「終わり」にはならない。


けれど、それは「始まり」でもなかった。


食器を洗い終え、私は静かにタオルで手を拭いた。


ふと、リビングを見やると、

香梨奈が、テレビもつけずにソファに座っていた。


俯いたまま、両手をじっと見つめている。


私の中で、何かがわずかに動いた。


——話さなければいけない。

このままじゃ、もう本当に壊れてしまう。


そう思った。思ったのに。


口を開こうとした瞬間、

喉が拒んだ。

心が、まだ震えていた。


話せば、終わるかもしれない。

でも、話さなければ、何も始まらない。


その矛盾が、胸の奥に重くのしかかる。


香梨奈を、これ以上“腫物”のように扱いたくなかった。

本当は、手を伸ばして、「大丈夫か」と声をかけたかった。

でも私は、そのたった一歩すら踏み出せなかった。


彼女の目の奥に宿る言葉を、もしも見つけてしまったら、

自分がどれほど臆病で、どれほど傷ついているかを

もう隠せなくなってしまう。


そして、気づく。


——やっぱり、まだ越えられないんだ。


目の前にいるのに、遠い。


声をかけようとすればするほど、

その距離が深まっていくようで、怖かった。


私たちの間には、

“かすれた声”すら届かないほどの、

深くて暗い谷が、確かに横たわっていた。


そして今夜もまた、

その谷を前に、立ち尽くすだけの夜だった。

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