沈黙のベッド
香梨奈との生活は、形だけは戻った。
食卓に並ぶ湯気、洗濯機の回る音、子どもたちの笑い声。
すべてが以前と変わらない日常のように見えた。
でも——。
どこにも、もう戻る場所なんてなかった。
あの夜、画面の中で見た“知らない香梨奈”は、
いま目の前にいる妻よりも、ずっと鮮明だった。
彼女の声、彼女の文字、彼女の表情。
他人のようでいて、それでも確かに、私が愛した女だった。
怒鳴りたかった。罵倒したかった。
「なぜ裏切った」と、泣きながら問い詰めたかった。
けれど、それをする力が、もう残っていなかった。
怒るという感情さえ、体の奥で鈍く沈んでいく。
喉の奥に詰まった言葉たちは、
息とともに漏れることもなく、どこか遠くに溶けていった。
——もう、どうでもよかった。
問い詰めたところで、何が変わる?
どんな答えが返ってきたとしても、過去は戻らない。
だったら、そのまま黙っていた方が、まだマシだった。
私は沈黙のまま、香梨奈と同じベッドに入る。
何も言わず、ただ背を向けた彼女の肩越しに、
無数の想像が押し寄せてくる。
あの男のこと。
どんな風に名前を呼んだのか。
どんな風に微笑んだのか。
どんな風に——抱かれたのか。
想像に、理性が敗れていく。
目を閉じても、記憶は消えなかった。
代わりに、頭の中で新しい映像が次々と生まれていった。
それは記憶ではなく、妄想でもなく、
ただの“呪い”だった。
そしてその呪いは、私の指先を動かした。
私は香梨奈を抱いた。
沈黙のまま、言葉もなく、ただ彼女に触れた。
温度はあった。柔らかさもあった。
でもそれだけだった。
彼女は何も言わず、抗いもせず、ただ目を閉じていた。
それが、たまらなく苦しかった。
「そこにいるのに、いない」
その感覚は、心の奥に深く杭を打ち込んだ。
触れ合うたびに、自分の中の何かが剥がれ落ちていく。
それは欲望でも、怒りでもなく、
“自尊心”という名の最後の壁だった。
私の存在価値が、どんどん曖昧になっていく。
この家の中で、父であり、夫であるという立場は残されているのに、
“男”としての自分は、跡形もなく削られていく。
香梨奈の体温さえ、嘘のように思えた。
何度抱いても、
何度求めても、
何も戻らなかった。
空っぽだった。
愛も、信頼も、安心も、
この沈黙のベッドの中には、何ひとつ残っていなかった。
それでも私は、やめられなかった。
夜になると、まるで祈るように、
香梨奈に触れた。
“まだ何かが残っているのではないか”という幻想にすがりながら。
けれど、毎回その幻想は、音もなく崩れ去った。
そして気づいたときには、私はもう、
自分が“誰か”だったことすら忘れかけていた。
「……これは、俺なのか?」
夜ごと崩れていく心の中で、そう何度も問いかけた。
香梨奈に背を向けられたままのベッドの上、
目を開けていても、閉じていても、
私はどこにも存在していなかった。
これが“家族”のかたちなのか。
それとも、“地獄”の名を借りた日常なのか。
答えは、誰にもわからなかった。
ただ一つだけ、確かなのは——
この沈黙が、
私という人間を、
少しずつ、確実に、殺しているということだった。