運命のスマートフォン
きっかけは、ただの掃除だった。
何の気なしに始めた、晴れた休日の午後。
その日、香梨奈は子どもたちを連れて、高校時代の友人とUSJへ出かけていた。
私は車で送り届けたあと、一人で静かな家に戻った。
手持ち無沙汰で、ふと思いついたように掃除を始めた。
洗濯機の前には、畳まれないままの衣類が積み重なっていた。
台所の隅には、賞味期限を過ぎた調味料の瓶。
いつからこんなふうになっていたんだろう。
気づかないふりをしてきた日々の乱れが、そこかしこにこびりついていた。
掃除機をかける手を止めたとき、クローゼットの奥に、小さな段ボール箱があるのが見えた。
取り出すと、埃をかぶったその中に、見覚えのある黒いスマートフォンが一台——香梨奈が以前使っていたものだった。
比較的新しい機種だったこともあり、「フリマで売れるかな」と、軽い気持ちで手に取った。
……ロックは、彼女の誕生日だった。
何の抵抗もなく、画面はすっと開いた。
初期化しようと設定画面を開いたときだった。
画面の端に、小さなSNSのアイコンが並んでいるのが目に入った。
開けちゃだめだ——
そう思った。心の中で誰かがはっきりとそう囁いた。
けれど指は、その声を振り切るように動いていた。
一度開いたら、もう戻れなかった。
そこにあったのは、私の知らない香梨奈だった。
知らない言葉。見たことのない、くだけた文体。
語尾のハートマーク、にじむような笑い顔の絵文字。
画面越しに、彼女の声が聞こえる気がした。
あどけない、甘えた声で、誰かに名前を呼びかけている気がした。
私の知らない、香梨奈。
メッセージ履歴のスクロールが止まらない。
写真。時間。言葉。肌を重ねた日々の記録。
心臓の鼓動が、身体の奥から暴れ出す。
息が詰まる。喉の奥に重たい石を詰め込まれたようで、呼吸の仕方がわからない。
「……ふざけんなよ」
自分でも驚くほど低く、かすれた声が、部屋の中に響いた。
手の中のスマートフォンがぐにゃりと歪んで見えた瞬間、
私はそのまま、それを床に叩きつけた。
液晶が砕け、軽い破裂音とともに、ガラス片が飛び散る。
けれど、それでも足りなかった。
もう一度拾い上げ、何度も、何度も床に打ちつけた。
手のひらの感覚がなくなるほど握り締めたあと、肩で息をしながら、私は膝から崩れ落ちた。
「何してんだよ……俺は……」
涙ではない、嗚咽でもない、どこにも届かない声が喉の奥で震えていた。
静かなリビングに、散らばるガラスの破片と、崩れ落ちた心の音だけが残っていた。
それが怒りだったのか、悲しみだったのか。
いまでも、うまく言葉にできない。
ただ、あの瞬間——
俺は、確実に、戻れなくなった。