終わらせたい夜と終われぬ現実
帰宅したとき、家の中にはぼんやりと照明の明かりが灯っていた。
玄関のドアを静かに開けると、湿った夜気が肌に触れた。
香梨奈は、ソファに座っていた。
膝を抱えるように背中を丸め、テレビの青白い光がその小さな背に映っている。
私の帰宅に気づいていないはずがなかった。
それでも彼女は、こちらを見ようとしなかった。
まるで、そこに私は存在していないかのように。
私はゆっくりと靴を脱ぎ、リビングへ向かう。
自分の足音が、やけに大きく響いた。
「……ただいま」
その声は、頼りなく空気に溶けていった。
香梨奈はちらりと私を見た。
けれど目が合ったのは一瞬だけで、すぐにテレビへと視線を戻した。
画面の中では、深夜の通販番組が流れていた。
切れ味の良い包丁の映像が、どこか現実離れしていて、逆に痛々しかった。
「子どもたちは?」
「……もう寝たわ」
淡々とした声だった。
私は椅子に腰を下ろした。
ソファとの間には、ほんの数歩の距離があるだけなのに、何か大きな川が流れているように思えた。
「……話があるんだ」
そう言おうとした矢先、香梨奈は立ち上がり、背を向けた。
「先に寝るね」
それだけ言い残して、寝室へ向かっていった。
私はその場に取り残された。
あんなにも言葉を準備して、決意を固めてきたはずだったのに。
なのに、何も伝えられなかった。
風呂場へ向かい、熱いシャワーを浴びながら顔をこすった。
それでも心に貼りついた澱のようなものは、何一つ取れなかった。
寝室のドアを開けると、香梨奈はすでに布団に入っていた。
部屋は暗く、彼女の姿は輪郭だけがぼんやりと見えた。
「……まだ起きてる?」
私が問いかけると、香梨奈は小さく寝返りを打ち、答えた。
「うん」
「……もう、やめようと思う」
「決めたよ。やっぱり、戻れない。俺たち」
返事はなかった。
それでも、私は続けた。
「明日にでも荷物まとめて出ていく。
生活費は送るから、心配しなくていい。
このマンションも、お前が使ってくれて構わない」
返事のない沈黙に耐えきれず、私は一方的に言葉を並べた。
否定されるのも、肯定されるのも怖かった。
そのとき、香梨奈がゆっくりと身を起こし、私のベッドに入ってきた。
驚いた。
これまで彼女のほうから求めてきたことなど、なかった。
戸惑う私に、香梨奈は何も言わず唇を重ねてきた。
そのまま私の身体に跨り、静かに肌を重ねてくる。
求めるというより、何かから逃げるような熱。
彼女の目は、虚ろだった。
私を見ていないことが、痛いほど分かった。
それでも私は、彼女を拒めなかった。
香梨奈の動きには、快感も愛情もなかった。
それなのに、その整った動きだけが妙に生々しく、切なかった。
どこか自分を罰しているような、それでいて淡々とした時間。
私は、その最中でふと泣きたくなった。
──何をしているんだろう。
誰のために。
何の意味があるんだろう。
それでも──抱いてしまった。
行為のあと、香梨奈はぽつりと呟いた。
「……解決方法が、わかった」
私はその言葉に、ただ「そうか」と返し、背を向けた。
目を閉じて、眠ったふりをした。
沈黙の中、彼女の体温がまだ背中に残っていた。
それがぬくもりなのか、ただの熱なのか、もう判別できなかった。
──解決なんて、していない。
あの夜も、あの事実も、何ひとつ消えていない。
何度抱いても、私は戻れない場所にいる。
それでも彼女は、私を手放そうとはしない。
きっともう、自分でも理由が分かっていないのだろう。
ただ何かを繋ぎとめようと、今を引き延ばしているだけ。
──もう、いい。
この夜で終わらせるはずだった。
離婚を告げ、別々の道を歩むはずだった。
なのに、私は何もできなかった。
でも、ひとつだけ決めた。
壊れたまま、ここで生きる。
それが正しいことなのか、自分を裏切ることなのか、それすら分からない。
ただ──子どもたちの笑顔を守るために、自分の破片を抱えて生きていくしかないのだ。
夜が明ける。
冷えた空気が肌に忍び込む。
私はそのまま目を閉じて、まぶたの裏に浮かぶ夏鈴と蒼空の笑顔だけを見ていた。
何も変わらないままの朝が、また始まった。
そして──
私の中に芽生えた新たな決意は、やけに静かで、心地よかった。
まるで、自分を見失うことに、何かの意味があるような気さえして。