崩れた信条
目を覚まし、目の前の景色が昨日と変わらないことに、少しだけ安心する。
だがその安心が、どこか虚しく感じられるのはなぜだろう。
朝食を作り、子どもたちを送り出す。
無言のまま交わされる最低限の会話。
私たちの間には、もう無駄な言葉を交わせる余裕さえ残っていなかった。
会社に向かい、夜には家に帰る。
その一連の流れだけは変わらなかった。
だが、変わらないのは生活の形式だけで、心の内側では、毎日がまったく違っていた。
家に帰れば、またあの静かな沈黙が待っている。
食卓を囲む時間が、今では異常に長く感じる。
互いに視線を合わせることもなく、ただ目の前の食事に集中するだけ。
それはまるで、何かを見失い、取り戻せない不安を抱えながらの儀式のようだった。
香梨奈もまた、同じように感じているのだろう。
けれど私は、その苦しみに寄り添うことができなかった。
あの日から──
私の心は、もう彼女のそばに戻ることができなくなっていた。
彼女がどれほど辛い思いをしているのか、理解していないわけではない。
ただ、その痛みに手を伸ばすだけの余裕が、もう私にはなかった。
唯一、私たちを繋ぎとめていたのは、子どもたちだった。
夏鈴はいつも通りおおらかで、蒼空は元気に学校から帰ってくる。
だが、その明るさが、どこかで私を苦しめた。
私は、そんな彼らの笑顔の中で、息をひそめるように生きていた。
ある日曜の午後、蒼空が嬉しそうに言った。
「パパ、新幹線見に行きたい」
テレビで見たドクターイエローを、生で見てみたいという。
香梨奈と顔を見合わせ、どちらからともなくうなずいた。
何も言葉を交わさずに、その提案を受け入れた。
翌週、私たちは家族四人で新大阪駅へ向かった。
何ヶ月ぶりかの外出。
きっと傍目には──仲のいい家族──に見えたはずだ。
私たちも、その錯覚に縋りたかった。
どんなに壊れていても、この形だけは守りたかった。
ほんのひとときでも、穏やかでありたかった。
蒼空はホームの端に立ち、身を乗り出して列車を待っていた。
その姿を見て、心の奥がわずかに温かくなるのを感じた。
「来た!」
蒼空の叫び声。
指差す先から、黄色い車体が現れる。
ドクターイエロー。
まるで幻のように、音もなく滑るように通り過ぎていった。
私はふと、横にいた香梨奈を見た。
彼女も微かに笑っていた。
その表情を見た瞬間、過去の穏やかな日々を思い出した。
まるで、ほんの一瞬だけ時間が戻ったかのように感じた。
駅近くのベンチで、コンビニで買ったサンドイッチを食べた。
その何気ない味が、不思議なほど美味しかった。
味覚が、少しだけ戻った気がした。
ずっと、何も感じられなかった。
それが、少しだけ埋まっていくようだった。
私は、ふと思った。
──やり直せるのかもしれない。
だがその直後、心の奥から声が響いた。
──それは違う。
やり直すことなんて、できるわけがない。
過去には戻れない。
香梨奈がしたことを、なかったことにはできない。
それでも、その問いは心に残り続けた。
矛盾したまま、消えなかった。
帰り道、私はずっと考えていた。
あの一瞬、家族で過ごした時間。
香梨奈の微笑み。
そして、サンドイッチの味。
すべてが、あまりに愛おしかった。
だからこそ、家に戻った瞬間に押し寄せた虚しさが、余計に重たかった。
家の中に戻れば、またあの無言の世界が待っていた。
私は何も言わずに部屋にこもり、香梨奈もキッチンに立った。
互いの気配だけが、薄く流れていた。
夜、ベッドに横たわりながら、私は問いかけた。
──香梨奈は本当に、やり直したいと思っているのだろうか。
それとも、私が勝手に幻想を見ているだけなのか。
そして、静かにもう一つの問いが浮かぶ。
──この家族を守るために、私はどれだけ自分を犠牲にすればいいのか?
その夜も、眠れなかった。
だが心の奥で、なにかが小さく芽生えはじめていた。
それが希望なのか、諦めなのか、自分でも分からなかった。