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解放  作者: 爆竹
第二章-歪んだ再生
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崩れた信条

目を覚まし、目の前の景色が昨日と変わらないことに、少しだけ安心する。

だがその安心が、どこか虚しく感じられるのはなぜだろう。


朝食を作り、子どもたちを送り出す。

無言のまま交わされる最低限の会話。

私たちの間には、もう無駄な言葉を交わせる余裕さえ残っていなかった。


会社に向かい、夜には家に帰る。

その一連の流れだけは変わらなかった。

だが、変わらないのは生活の形式だけで、心の内側では、毎日がまったく違っていた。


家に帰れば、またあの静かな沈黙が待っている。

食卓を囲む時間が、今では異常に長く感じる。

互いに視線を合わせることもなく、ただ目の前の食事に集中するだけ。

それはまるで、何かを見失い、取り戻せない不安を抱えながらの儀式のようだった。


香梨奈もまた、同じように感じているのだろう。

けれど私は、その苦しみに寄り添うことができなかった。


あの日から──

私の心は、もう彼女のそばに戻ることができなくなっていた。

彼女がどれほど辛い思いをしているのか、理解していないわけではない。

ただ、その痛みに手を伸ばすだけの余裕が、もう私にはなかった。


唯一、私たちを繋ぎとめていたのは、子どもたちだった。

夏鈴はいつも通りおおらかで、蒼空は元気に学校から帰ってくる。

だが、その明るさが、どこかで私を苦しめた。

私は、そんな彼らの笑顔の中で、息をひそめるように生きていた。


ある日曜の午後、蒼空が嬉しそうに言った。


「パパ、新幹線見に行きたい」


テレビで見たドクターイエローを、生で見てみたいという。

香梨奈と顔を見合わせ、どちらからともなくうなずいた。

何も言葉を交わさずに、その提案を受け入れた。


翌週、私たちは家族四人で新大阪駅へ向かった。

何ヶ月ぶりかの外出。

きっと傍目には──仲のいい家族──に見えたはずだ。

私たちも、その錯覚に縋りたかった。

どんなに壊れていても、この形だけは守りたかった。

ほんのひとときでも、穏やかでありたかった。


蒼空はホームの端に立ち、身を乗り出して列車を待っていた。

その姿を見て、心の奥がわずかに温かくなるのを感じた。


「来た!」


蒼空の叫び声。

指差す先から、黄色い車体が現れる。

ドクターイエロー。

まるで幻のように、音もなく滑るように通り過ぎていった。


私はふと、横にいた香梨奈を見た。

彼女も微かに笑っていた。

その表情を見た瞬間、過去の穏やかな日々を思い出した。

まるで、ほんの一瞬だけ時間が戻ったかのように感じた。


駅近くのベンチで、コンビニで買ったサンドイッチを食べた。

その何気ない味が、不思議なほど美味しかった。

味覚が、少しだけ戻った気がした。


ずっと、何も感じられなかった。

それが、少しだけ埋まっていくようだった。


私は、ふと思った。


──やり直せるのかもしれない。


だがその直後、心の奥から声が響いた。


──それは違う。


やり直すことなんて、できるわけがない。

過去には戻れない。

香梨奈がしたことを、なかったことにはできない。


それでも、その問いは心に残り続けた。

矛盾したまま、消えなかった。


帰り道、私はずっと考えていた。

あの一瞬、家族で過ごした時間。

香梨奈の微笑み。

そして、サンドイッチの味。


すべてが、あまりに愛おしかった。

だからこそ、家に戻った瞬間に押し寄せた虚しさが、余計に重たかった。


家の中に戻れば、またあの無言の世界が待っていた。

私は何も言わずに部屋にこもり、香梨奈もキッチンに立った。

互いの気配だけが、薄く流れていた。


夜、ベッドに横たわりながら、私は問いかけた。


──香梨奈は本当に、やり直したいと思っているのだろうか。

それとも、私が勝手に幻想を見ているだけなのか。


そして、静かにもう一つの問いが浮かぶ。


──この家族を守るために、私はどれだけ自分を犠牲にすればいいのか?


その夜も、眠れなかった。


だが心の奥で、なにかが小さく芽生えはじめていた。

それが希望なのか、諦めなのか、自分でも分からなかった。

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