ふたつの沈黙
夕食の準備をしていると、香梨奈がぽつりと声をかけてきた。
「今日は……仕事、大変だった?」
私は包丁を止め、少しだけ間を置いてから「まあまあ」と答えた。
会話はそれきりだった。
香梨奈はそれ以上、何も言わなかった。
私も、何も聞き返さなかった。
それはたった数秒のやりとりだった。
けれど、その沈黙の中に、すべてが詰まっているような気がした。
私たちは、同じ部屋で、同じ空気を吸っていた。
同じ食卓に並び、同じ時間を過ごしていた。
でも、心は遠かった。
壊れてしまった関係を修復するには、
言葉が必要だということはわかっていた。
けれど、いまの私たちには、
言葉を発する勇気も、受け止める覚悟も、どちらもなかった。
香梨奈の沈黙と、私の沈黙。
それはただ静かに、互いの距離を肯定し合っていた。
食卓を囲みながら、
私は何度も、フォークを持つ手に力を込めた。
「どうして?」と問いかけそうになるたび、
その言葉は喉の奥で小さく砕けていった。
子どもたちが笑っている。
食後のデザートにアイスが出て、はしゃいでいる。
私も笑う。香梨奈も笑う。
けれど、その笑顔の裏側では、
互いに声にならない叫びを押し殺していた。
——このまま、話さなければ、すべては静かに続いていく。
それが、いちばん恐ろしかった。