壊れていく音
雨の音で目が覚めた。
窓の外では、小さな粒が屋根を叩いていた。
規則的で、優しいはずの音が、どこか不穏に聞こえた。
まるで、壊れかけた心の綻びを、静かに暴いてくるようだった。
隣には、香梨奈が眠っていた。
目を閉じたまま、まるで夢の中で何かを演じているような、
遠い場所にいる人のように見えた。
私はそっとベッドを抜け出し、リビングへ向かった。
カーテンを開けると、薄く煙った灰色の空が広がっていた。
雨音だけが、静かに部屋を満たしていく。
コーヒーを淹れながら、ふとスマホを手に取った。
画面には、何の通知もなかった。
なにも起きていないはずなのに、
胸の奥では、ざわざわと音がしていた。
静かな部屋の中で、聞こえてくるはずのない「音」が確かにあった。
それは、目には見えないけれど、
確かにどこかが壊れていくときにだけ鳴る、ひとつの警鐘のようなものだった。
些細な出来事だった。
たとえば、あの夜。
風呂上がりの香梨奈が、スマホの通知音に一瞬だけ反応した。
タオルで髪を拭きながら、無意識に手を伸ばして、画面を伏せた。
たったそれだけの仕草だった。
けれど、その動作はあまりにも“自然すぎて”、逆にわかってしまった。
見せたくない、知られたくない、そういう意志がそこにあった。
私はなにも言わなかった。
問いただすことも、責めることもできなかった。
ただ、胸の奥で、ひとつ「音」が鳴った。
——ああ、また、何かが壊れていった。
それは、感情でも信頼でも、希望でもなかった。
もっと曖昧で、言葉にならない何か。
だけど、確かにそこにあったもの。
その音を、私は知っている。
スマホを見たあの日も、香梨奈に手をあげてしまった日も、
同じ音が、自分の内側で鳴っていた。
音は誰にも聞こえない。
けれど、私には聞こえる。
もう戻らないと知ってしまった人間だけに聞こえる、沈んでいく音。
それでも私は、今日も家族を演じる。
その音を聞きながら、
笑顔を貼りつけ、子どもたちの前では何もなかったふりをする。
剥がれ落ちていく心の破片を、
ひとつずつ拾い集めるように、
何事もないふりをして、ただ“生活”を続けていく。
——聞こえてしまったんだ、本当は。
でも、聞こえないふりをしている。
それが、いまの私だった。