錯覚の彼方に
土曜の午後、カフェの窓際席。
曇ったガラス越しに、通りを歩く人々がぼやけて見える。
直人はアイスコーヒーを前にして座っていた。
向かいには絵里。携帯を伏せ、まっすぐに彼を見ていた。
「……何か、話したいことがあるんでしょう?」
絵里が先に切り出した。
直人はしばらく迷ってから、ゆっくりと口を開いた。
「うん……絵里さんさ、最近、ちょっとよそよそしい気がしてた」
「……そうかもね」
「最初のころは、すごく優しくて。俺、きみのこと……すごく良い人だと思ってた。でも……なんていうか、最近は違って見えるんだ」
絵里は少し俯いた。
「『思ってたのと違った』ってこと?」
「……正直、そうかもしれない」
コーヒーの氷が音を立てて溶ける。
沈黙の中で、絵里はぽつりと呟いた。
「……私ね、たぶん、すごく良い女じゃないよ」
「……え?」
「職場でも、浮いてるし。人と一緒にいると、すぐ疲れるし。……でも、あなたといる時間は楽しかった。気を使わずにいられるって、初めて思ったから」
彼女は自分の手を見つめながら、言葉を続けた。
「でも、だからって全部うまくいくわけじゃないよね。ちゃんと伝えなきゃいけないこと、いっぱいあったのに、逃げてた。……それが悪い女に見えたなら、それも仕方ないかもしれない」
直人はその姿を見つめながら、思っていた。
最初に彼女を「良い女」だと感じたのも、
最近「悪い女」に見えたのも、
全部、自分の中の「理想」と「不安」が作り上げた幻影だったのかもしれない。
彼女は最初から、良くも悪くも“ただの絵里”だった。
ただ、そこにいるだけの、一人の不器用な人間。
「……ごめん。俺も勝手に、きみを型にはめようとしてた」
「……ううん。私も、逃げてたから」
「だったら……もう少しだけ、続けてみない? お互い、ちゃんと見合いながらさ」
絵里は一瞬きょとんとした顔をしたあと、
照れくさそうに、でも穏やかに笑った。
「……たぶん、私、またちょっと冴えないかもよ?」
「うん。それがいいと思う」
二人は、もう一度向き合うことにした。
それは完璧な関係ではない。誤解も、沈黙も、ぶつかり合いもあるだろう。
でもそれでも、「錯覚の先にある実像」を見ようとする努力。
それだけは、確かに始まっていた。