翳りの影
交際が始まって、三ヶ月が経った。
最初の数週間は、まるで夢の中にいるようだった。
絵里は控えめで優しく、時おりふとした拍子に見せる笑顔がまぶしかった。直人は彼女のそうした「見つける喜び」を、恋愛の醍醐味だと感じていた。
けれど、ある日、ふとした違和感が心にしみ込んだ。
最初のそれは、些細な出来事だった。
会社の同僚たちと昼休みに談笑しているとき、絵里が近づいてきて、冗談混じりに言った。
「直人さんって、意外と小心者ですよね」
言葉そのものは軽かった。周囲も笑った。
でも、その一言がなぜか直人の胸に引っかかった。
「冗談だってわかってる。でも、なんで今、ここで?」
そしてそれから数日後、LINEの返信が遅れがちになった。
それまでなら仕事終わりにすぐ返してくれていたのに、既読のまま夜まで音沙汰がないことが増えた。
たまたまだろうと最初は思った。でも、ふとSNSを見ると、彼女が他の男性社員と飲み会をしている写真が上がっていた。しかも、楽しそうに笑っている。
その夜、ベッドの中で直人は眠れなかった。
脳裏に浮かんでくるのは、彼女のあの写真。
あの笑顔は、自分だけに向けられたものじゃなかったのかもしれない。
スマホを見ても、絵里からのメッセージはない。
焦りがじわじわと広がる。
「もしかして、俺だけが盛り上がってるんじゃないか?」
そして次の日、彼女に思わず聞いてしまった。
「昨日の飲み会、楽しかった?」
「え? うん、まあ普通に。でも何?」
「いや、ちょっと気になって……男の人もけっこういたみたいだったから」
一瞬だけ、絵里の表情が固まった。だがすぐに笑顔に戻る。
「……やきもち?」
「そういうわけじゃ……いや、少しだけ。でも気になってしまって」
絵里は目を伏せたまま、小さくため息をついた。
「……そういうの、ちょっと苦手なんです。束縛っていうか。私、自分の時間も大事にしたいタイプで」
その言葉が胸に刺さった。
別に責めたかったわけじゃない。ただ、確かめたかっただけなのに。
その日から、直人の心の中に、絵里に対する「影」が生まれた。
彼女が何をしていても、「もしかして」という疑念がついて回る。
メッセージが遅れれば、「他の誰かといるのかも」と思い、
笑顔を見せれば、「俺にじゃないのかも」と疑う。
良い女だと思ったはずなのに、今は「もしかして、すごく悪い女だったのでは?」という思いがよぎる。
あの始まりの笑顔は、全部、偶然の演出だったのか?
直人は、次第に絵里との距離を取り始めていた。
そしてある夜、別れを決意してメッセージを書きかける。
けれど、送る直前で指が止まった。
本当に、これでいいのか?
何かを勘違いしているだけじゃないのか?
彼女は、そんな悪い女だろうか?
心の中の声が、答えをくれなかった。