始まりの光
昼休みの社員食堂。雑音にまぎれて、直人はスマホをいじるふりをしながら、向かいの席の女性をふと見た。
彼女の名前は絵里。社内の庶務を担当していて、存在感はほとんど空気だった。地味な服、無表情な横顔、誰にでも丁寧だけれど距離を感じさせる話し方。たぶん、他部署の社員なら名前も覚えていないだろう。
そんな彼女が、湯気の立つ味噌汁をじっと見つめている。
それだけのことなのに、直人はなぜか、そこに引っかかった。思わず口に出していた。
「……熱そうですね、それ」
絵里は驚いたように顔を上げた。ほんの一瞬、眉が動き、目が直人を捉える。
「あ、はい。猫舌なんです、私」
思っていたより高めの声だった。そして、そのあとで小さく笑った。恥ずかしそうに、しかし、どこか嬉しそうな笑み。
その一瞬の表情が、直人の胸に不思議な痕を残した。
午後の業務を終え、帰ろうとしたとき、直人は再び絵里を見かけた。エレベーターの前で、一人、下を向いてスマホをいじっていた。
声をかけようか迷った末、なぜか足が動いていた。
「さっき、味噌汁飲めました?」
そう聞くと、絵里はまた驚いた顔でこちらを見た。
「……はい。なんとか。でもちょっと舌、やけどしました」
「それは災難だ」
二人で笑った。
直人はその流れで、つい言ってしまった。
「……よかったら、これからどっか寄りません? 軽く、飲みにでも」
自分でもなぜそんなことを言ったのか分からなかった。ただ、あの笑顔が、頭から離れなかった。
その夜、小さな居酒屋のカウンターで、直人と絵里は並んで座っていた。
話題はたわいもないものばかりだった。仕事の愚痴、好きな食べ物、最近見たドラマの話。
だが、絵里はよく笑った。静かに、けれど確かに笑っていた。
「……私、あんまりこうやって人と飲みに行ったりしないんです」
「意外ですね。けっこう話しやすいですけど」
「そうですか? うれしい。……でも、たぶん、今日だけです。なんか、安心できるから」
その言葉に、直人の胸はわずかに熱くなった。
そのとき彼は思った――この人は、きっとただの「冴えない女」なんかじゃない。もっと深く、豊かな何かを持っている人なんだ。
そしてその思いは、いつしか確信に近づき始めていた。