第2話 出題編1-2 天才
東京の一等地にあるこじんまりとした雑居ビル。左右を見れば日本を支えるような大企業のビルがひしめくビジネス街を望むことができる。そんなビル群の影に隠れた場所だった。ここだけ昭和の頃から時間が止まっているのかと思うほど、不釣り合いな光景ではある。もちろん、それをノスタルジックなんて言葉で物知り顔して評価はしない。私は普通に新宿とか渋谷とかのオフィスで働きたかった。
時刻は、ちょうど八時半。金曜日の出勤時間ということもあって、大きなキャリーケースを持って電車に乗るのは気が引けたけれども、満員電車で舌打ちをされるよりも、凪沙から指定された時間に遅れてやいのやいのと言われるほうが嫌だった。
始業時間には間に合ったので大丈夫だろうと、これならばもう少しゆっくり歩いてくることができたんじゃないかとも思いながら、膝に両手をつきながら息を整える。吐いた息は白く染まり、目の前をかすませた。
その霞越しにもわかるほど古く黄色くなった壁。せめて外壁を白いペンキで塗装すればいいのにと私は思うが、それを言って万が一にも私がそれをさせられたら面倒だから言わない。凪沙にとってもこれはこだわりなのだと勝手に考える。事務所は多少古臭い方が、探偵らしいという。うん、したりがおで言っていそうだ。
「うっ、重たい」
わざわざキャリーケースをもって階段を上るのも大変で、私はキャリーケースを道端に置いて凪沙を呼びに行くことも考えたけれども、こちらがほとんどの荷物を準備しているから、万が一にも盗まれてしまえば業務に支障をきたすだろう。そのリスクを考えれば、多少はキャリーケースが階段とぶつかって傷んだとしても運ぶ価値がある。そもそも、約束の時間である九時だったとしても凪沙が出発できる準備を終えているとは思えなかった。まあ、下ろすときのことは考えないでおこう。
「はぁはぁ」
何度かキャリーケースを階段にぶつけ、息を切らしながらなんとか事務所に繋がる階段を昇りきった。そして、これも古びた黒いインターホンを押す。すると、ピンポーンと気の抜けた音が鳴って中からバタバタと音がした。おそらく凪沙が準備をしている音だろう。そして、どたばたという音は近づいてくると、急に止んだ。その数秒後に、扉がガチャリと音を立てて開く。
「いらっしゃい。さ、はいって」
その部屋の主は、いやこの雑居ビル全体の主である凪沙は私を手招きして中に招き入れた。別にドアへとキャリーケースをぶつけても気が咎めないのは古びた建物のいいところだ。しかし、予想通りというのか凪沙はまだパジャマを着ていてとてもじゃないけれども出かけられる状態ではなかった。おそらく私に準備をさせる時間も含めての九時集合なのだろう。一人暮らしをしているのに、ここまで生活力がないと自分がいない週末はどうやって生活しているのかと心配になってしまう。
「ほら、そこにコーヒーがあるから好きにどうぞ」
これが、例えば新幹線で東京に住む友達の家に遊びに来たとかならいい。しかし、ここまでやってきたのは仕事で、目の前にいる年下の女性は私の一応は上司に当たる。ただ、凪沙はあまりそういう扱いを好まないから友達の様には接している。
「なによ、こっちをじろじろと見て」
小伏凪沙。目の前でクッキーを美味しそうに食べる女性の名前だ。
ミステリー好きにその名前を知らない人はいないとまで言われるほどの有名人。
十九歳の時に小説『七人目の探偵』で小説家デビューを果たす。その後も三カ月に一本という驚異的なペースで作品を量産し、特にリアリティのある描写と犯人の犯行に至ったバックグラウンドの作りこみが評価されてわずか四年で本格派ミステリーの最高峰にまで上り詰めた間違いなく当代きっての天才。
たぶん、凪沙について調べるとネットにはこんな風に書かれているだろう。それは間違いではない、だけれども現在、私の目の前にいる今の凪沙は違う。小伏凪沙は私にとってミステリー作家ではなく、名探偵だ。
凪沙は執筆業に加えてその天才的な頭脳を生かして探偵業も営んでいる。こちらの収入は科学的な捜査が発展したこと、そもそも推理小説に出てくるような難事件はほとんど現実では起こらないからあまり期待できないのだが、凪沙からすればあくまで探偵業が本業であり、執筆は副業でしかないらしい。
それがこだわりだというのなら、別にそれに対して私が何かを言う必要もないし、言うべきでもない。私が凪沙のことを探偵さんと呼ぶと、凪沙は非常に喜んでくれている。だから、銀杏が機嫌を取りたいときには探偵さんと呼ぶようにしている。
凪沙は可愛らしいピンクと水色のふわふわした全身を覆うパジャマにくるまれていた。この前のクリスマスに私がプレゼントしたものだった。今度の誕生日には、下着でも送ろうかと一瞬は考えるけど、なんだかいやらしいのでその考えを頭を振って消す。凪沙が指さした先には、熱々で淹れたてのコーヒーがお茶菓子と並んで置かれてある、わけじゃない。カップとスティックコーヒーの袋が置かれてある木製の棚があるだけだ。ようはセルフサービスで、飲みたければ自分で淹れろということだった。まあ、雇われの身だからそれくらいは別にいい。
「あ、私もお願い。棚の二段目にはクッキーも入っているから」
「はいはい」
私が慣れたその指示をさっさとこなすと、スティックシュガーとミルクをそれぞれ二つずつ入れた熱々のコーヒーをふうふうと念入りに息を吹きかけてから、凪沙はそれを口にした。こうなることはわかっているなら冷ましてから渡すべきという人もいるけれど、口をとがらせて息を吹きかけるのが子供っぽくてかわいいので、私はわざと熱々の状態でコーヒーを彼女に渡す。隣に念のためにミルクと砂糖を添えて。
「うん、おいしい。どんどんコーヒーを淹れる腕が上がっているわね」
「粉にお湯をかけているだけなんですけどね」
ちなみにコーヒーを通ぶって話すのも、凪沙のこだわりだ。それなら、豆を挽いて入れるくらいはすればいいのにと私は思うけれども、どうやらそれは違うらしい。あくまで私の淹れたコーヒーがいいと我儘な所、まるで猫みたいだ。次いで自分のコーヒーを淹れようとポットからお湯を注ぐと、コーヒーのにおいがふんわりと漂ってきた。毎回、私が出勤してから最初にやることがこれなので、コーヒーのにおいを嗅いでようやく自分が探偵事務所に到着したのだと実感する。
「それで、今回の依頼メールは?」
「これこれ、ちょっと読んでみて」
私がカップを持って凪沙のテーブル付近に行くと、そのまま手招きされる。それに応じて近寄ると、パソコンの画面を見るように指示される。そこにはメールボックスが開いていて、きっちりと一昨日の日付でメールを受け取っていた。ビジネスマナーを備えている人が書いたメールだと一目でわかるほど丁寧で、逆に言えば読みづらいそれの中で、必然的に私の視線は数字に引き寄せられる。依頼料の提示だ。
「でもこれって、数字がおかしくないですか? ゼロが七個も」
「あなたって意外とお金に意地汚いわね。別に、そこは普通じゃない。私が小説を一本書けば、それくらいの金額は普通にもらえるわよ」
「いや、それはそうなんですけど」
私みたいな一般庶民からすれば、一の隣にゼロが七つも並んでいるなんて光景は初めて見た。悲しいかな、銀行口座の通帳に七桁の数字が並んでいることすらも。
「まあ、依頼者が依頼者だしね。それくらいはもらっても罰はあたらないわよ」
「依頼者?」
そう言われてから、私はメールの末尾まで移動させる。そこには、椋木四葉と書かれていた。それを見た凪沙は十分に説明したと満足げな顔をしている。しかし、残念ながら私には満足に伝わっていない。凪沙が鼻歌を歌いながら追加のクッキーを取りに行こうとしたところを捕まえて、問いただす。
「ちょっと待ってください。この人はお知り合いなんですか?」
「はぁ? どういうことよ。もしかして、椋木四葉を知らないの?」
もちろん知らないので、私は首を縦に振った。それを見た凪沙は大きく溜息をつく。
「ニュースを見て社会のことを知っていたほうがいいわよ。常識だからね」
日も昇りきらない五時に電話をかけてくるような人に常識を言われたくないと私は思ったけれど、出かかったその言葉をコーヒーで体の中に流し込む。自分の中で葛藤しているうちに凪沙は引き出しから一本のリップクリームを取り出した。
まさか見た目にも気を使わない凪沙がこんなものを持っていたことは意外だったけれども、それ以上に驚いたのはそれを私の顔の方向に近づけてきたことだった。いったい何をされるのだろうか、唇は乾燥しているけどリップなんて持ってる。
どういうことかと身構えていると、凪沙が話し出した。
「どうして目をつぶるのよ。ほら、ここに椋木って入っているでしょ。ブランドの名前とは関係ないけど。少なくとも日本に置いて椋木と言えば椋木グループよ。ほら、ここにある椋木増吉はグループの会長。家具とか文房具とか、最近だと不動産もやっているわ。どれも高級志向のブランディングをしているから知名度は高くないけど」
そう言いながら、凪沙がメールの一文を指さした先には確かに椋木増吉という名前があった。その名前なら、さすがの私でも聞いたことがある。頭の奥に収納されていた。なかなか最近はそれを使用していなかったから頭からすっぽりと抜け落ちていたのだ。そして、それと同時に記憶が次々と蘇る。
椋木グループ。わかりやすく例えるなら昔の財閥みたいなものだった。しかし、どれも高級品ばかりだから私は椋木家具の商品も、椋木美容の化粧品も触ったことがない。凪沙のリップクリームだって私が普段使いできるような代物ではないはず。お世話になったのは大学の入学祝に椋木文具の万年筆を親戚からもらったくらいだろうか。ただ、それももったいなくてほとんど使えていない。そんな椋木グループの関係者がどんな用事があるのだろうと思いながらメールの文面をすべて見直す。
すると、とんでもない文字が私の目に飛び込んできた。
「それで、椋木増吉さんが……殺害された?」
メールは基本的にかなり丁寧に書かれていたけれども、その部分だけはありのままの事実が書かれていた。『当主である椋木増吉が不可解な方法で殺害された』そんな言葉をそれ以上に丁寧に書く方法なんて思いつかないだろう。
「そうよ。それで、椋木グループとしては私たちに直接、事件を解決してもらいたいらしいわ。そこの理由はわからないけど、警察を咬ませるのは禁止で、身の安全は保障しきれない。それを考えると、一千万なんて安い気もするけどね」
凪沙はひょうひょうとそう言ったけれども、私はまだ理解が追い付いていない。
「は? どういうことなんですか。殺人事件なのに警察を介入させないのは明らかにおかしいです。そもそも、私たちは推理ならできますけど検死とかはできないんだから、謎を解くのも格段に難易度があがりますよ」
これまでの事件、というには経験が浅いけれどもアリバイの整理やクローズドサークルの外から遺体となった被害者とそれぞれの関係性を探るなどの細かいことも全て警察が行ってくれていた。それは少しは事件の解決に寄与しているはずだ。
「そういうのは大丈夫らしいわ。お抱えの医者がいるらしいし、その人が法医学の知識も持っているから。ただ、それ以上のことは説明されてはいない。もしも依頼を受けるのなら仙台まで来いってことよ」
無茶苦茶だと私は思った。そもそも、警察に連絡したくない理由もよくわからないし、なにより身の安全が保障されないのが不安だ。相手は殺人鬼、もしも事件の真相に近づけば凪沙も私も殺害される危険がある。
「まあ、仙台までいけば向こうの島よ。椋木グループは大きいだけあって黒い噂も多い。仙台に根付いている指定暴力団との繋がりも噂されているから、一度でも足を踏み入れれば逃げられないでしょうね。ましてや警察にも知らせたくない増吉の死をこうして知ることになってしまった私たちの身も保障されないけど」
「じゃあ、断りましょうよ。そんな依頼」
私が泣きそうな声でそういうと、凪沙は下を向きながら首を横に振る。
「残念ながら、そうもいかないのよ。椋木グループは様々な子会社を持っているけれども、私がいつもお世話になっている出版社もそう。まあ、間違いなくその権力で潰されるでしょうね。そうなると、この事務所も維持はできない」
もはや、絶望的だった。
「まあ、大丈夫よ。この一千万円だって前払い金だから、きっと報酬ならもっともらえると思うし、ちゃっちゃと事件を解決してしまえばおしまい。事件の状況は仙台に行かないと教えてもらえないらしいから、とりあえず今から東京駅まで向かうわよ」
絶望する私の顔とはひどく対比的に、凪沙の顔はとても楽しそうだった。事件の解決、それも難事件であればあるほど燃える彼女にとっては、椋木増吉というビッグネームが、不可解な方法で殺害されるというまさにミステリー小説のような話は、興味が尽きないのだろう。まあ、武術の心得はあるらしいのでなんとかしてくれるのか。
私は自分のいいところでもあり、悪いところでもある流されの姿勢に、徹することにした。小枝が川の流れに逆らおうとも鯉のように滝を昇れるわけじゃない。
「よ~し、じゃあ出発進行!」
「しんこう……」
対照的な声が、古臭い事務所内に響いた。