第16話 出題編2-5 二重の密室
私と今泉さんの二人で協力して凪沙、私、黒崎医師の三人分だけ靴を持って地下の物置の前に戻ると、すぐに凪沙はそれを履いて部屋に踏み込んだ。厚底のブーツが床に散らばったガラスの破片を砕き、小気味の良い音がする。
素足ならば足の踏み場もないほどに散らかった物置に凪沙に続いて黒崎医師と私も踏み込んだ。私と凪沙が周囲の状況を確認している間、ドアの前では柴崎さんと今泉さんが見張りをしている。どうやらボディーガードの側面もあるらしく、柴崎さんは空手、今泉さんは剣道の有段者だと聞いた。これなら少しは安心だ。
「それにしても、また濡れていますね」
靴が一歩、床につくたびに水がつぶれる音がする。雨があがった次の日みたいで気持ちが悪い。できるかぎり現場を荒らさないように、私は丁寧に歩きながら現場の写真を撮影していく。しかし、修一殺害の時は船が濡れていたことは外にあったのだから理解できる。ただ、増吉と英二に関しては現場が濡れていることが不自然だった。それが果たして密室を作り上げた原因になっているのか、それともミヨさんのいう一本だたらの仕業なのか。
いや、そんなものは存在しない。存在しないはずと私は再び自分に言い聞かせた。
「とりあえず遺体の状況を確認しましょ。黒崎さん、お願い」
凪沙がそういうと、黒崎医師がすぐさま検死を始める。ドアを私と凪沙の二人でどかすと、そこには深々と胸に剣が突き刺さった英二の遺体があった。赤黒い血はシャツを真っ赤に染め、その量から死因は医者でもない私にもわかる。だらんと垂れたその腕に、脈がないことは見ればわかった。青ざめた顔は恐ろしく、やっぱり何度見ても慣れない。既に刺された心臓の辺りから熱を失い凍結を始めている
念のために確認した黒崎医師も、すぐに首を振るだけだった。ただ、それとは別に新しい事実も判明することになる。
「この遺体も、どうやら体の表面が冷やされています。死後硬直や気温を考慮しても明らかに冷えすぎている。しかも、血はかなり新鮮です。先ほど殺されたのは間違いないです。それ以前に最後に目撃したのが昼ですが、遺体が濡れていることを考慮してもこれは明らかに作為的に行われたものでしょう」
「そう」
黒崎医師の言葉に、凪沙は適当な返事をする。これは、すでに推理のスイッチが入っている証拠だった。こうなると、自分の世界に入ってしまう。ただ、それは間違いなく事件の解決には必要な過程だった。凪沙はその大きな目で部屋の中をぐるりと見渡す。そしてすぐに指示が飛んできた。
「エアコンを消してちょうだい、濡れているのが何かのヒントになるかもしれない」
本来は物置なのだがエアコンが設置されていて、今は勢いよく稼働している。すぐさま私はスイッチを切る。すると、一気に冷え込んだ気がした。地下ということもあってエアコンを着ると、室内だというのに凍えるほど寒い。部屋着ではとてもじゃないけれども長居はできないはずなのに、英二の遺体は私よりも薄着だった。つまり、この物置の内側で英二が生存していた時間は長くないということか。
「気温や死後硬直を踏まえても、おおよその死亡推定時刻はわからない?」
そう聞かれた黒崎医師は再び、英二の顎に触れる。しかし、首をふった。
「ええ、さすがに詳しくは。ですが私は英二さんを三時間前に目撃しています。渡橋さん、エアコンの温度設定はいくらでしたか?」
「えっと、二十二度です」
私がそう答えると、黒崎医師は頷いた。
「もしもエアコンがずっと稼働して部屋の内側が二十度近辺で保たれていたのだとすれば私が英二さんを最後に目撃した直後に殺害されたとしても三時間程度では死後硬直などほとんど起こりません。年齢や体格を考慮しても、英二さんの遺体がここまで冷えていることは犯人によるものだと思います。まさに久米さんの話に合ったように一本だたらという妖怪に凍らされたのでもなければ。まあ、医師ですが私も科学者の端くれなものでそういったものは信じませんが。つまり、犯人が英二さんの遺体を凍らせたのか、はたまたより冷たい状況に置かれていたのか」
「そう。ありがとう」
黒崎医師の話を聞く限り、犯人が意図的に英二さんを殺害した後に遺体を凍らせて、それが自然に溶けたということだろうか。なら、どうして。
これまで、増吉殺害とこの英二を殺害した二度の殺人では遺体を冷やすという工作をしていたけれども、修一のボートで押しつぶした事件では冷やされていなかった。もちろん、死亡推定時刻をごまかしようがないというトリックなのだが、それなら別の方法を選べばいい。ここまで頭の良い犯人なのだ、他に何も思い浮かばなかったということは考えづらい。それに、黒崎医師はあくまでただの医者で監察医などではない。凪沙もそこまで死亡推定時刻に重点を置いて推理をしているわけではないから、それは無駄なことだ。警察が到着していれば別だけど。
「死因はその剣が突き刺さっていることで間違いない?」
深々と英二の細い体を貫いた剣の先端は、赤黒い血をまとっている。私はこの光景を見ても心はともかく体が特別な反応をすることが無くなってしまったことを少し怖くなるほど無残な光景だった。犯人と揉みあったのだろうか、天井から落ちたきらきらとしたシャンデリア、その細かな装飾は崩れて床に散乱しており、元の形は見る影もないほどになっている。黒崎は臆することなく遺体に触れて状況を確認している。私たちも遺体を見回していると、不思議な点が目についた。
「でも、どうしてこの遺体は仰向けにされているんですか?」
しかし、それを口に出したのは出入り口にいた柴崎さん。間違いなく英二の命を奪ったのはこの剣の先端が体を貫いたことだというのはわかる。しかし、遺体には剣が背中から体を貫いている。そのまま刺して放置すればうつ伏せになるはずだ。
「これ、なにか取り出したのかしら」
凪沙はこの柴崎さんの意見を受けて、ある部分を指さした。それは英二の胸ポケット。確かにそこは不自然にひっくり返っていた。慌てて何かをとりだしたときのようになっている。胸ポケットのサイズは小さく、おそらくそこに入るのは小さなメモくらいだろうか。
「英二さんしか知らない何かがメモになっていたということかしら」
「その可能性はありますね。その話をするために犯人が呼び出して、予め用意しておいた剣で後ろから刺し殺して、そのまま放置した?」
「だとしたらおかしいのよ。ほら、これを見て」
そう言って凪沙が指さしたのは、ドアの前にあるカーペットだった。そこには血のべっとりとついたもの、この部屋にあるものなら英二の遺体を擦ったような跡がある。それは英二の遺体の下まで続いていた。
「さっきはドアを急いでぶち破ったからわからなかったけれど、この遺体は間違いなくドアの手前に存在していた。もしも中道さんの部屋からここの鍵をとってもこの遺体がつっかえて押される仕組みになっていたんでしょ」
「でも、この部屋ってドアが内開きですよね」
さっき、三人がかりでドアをぶち破ったのも古い洋館だからだ。洋風の建築は基本的にドアが内開きなものが多い。だが、そうなるとおかしい。ドアが開く場所に英二の遺体があれば、英二を殺害した後に犯人が脱出できないのだ。
「そう、ここが二つ目の密室。犯人がまた密室を組み上げたのよ」
「そんな……」
「そんなことに絶望している暇はないわ。密室の一つや二つ、解き明かせなきゃ話にならない。ほら、すぐに推理を始めるわよ。そこの二人もおかしいと思ったところがあればなんでも言ってちょうだい」
凪沙が再び大きな声で私に向かって喝をいれる。起こってしまったことは仕方がないし、それを過去に戻ってやり直すことはできない。それは以前の事件で私が凪沙に言ったことだった。できることはこれ以上の殺人を防ぐことだけ。
目を擦って、部屋を見渡すとすぐに不思議な点は見つかった。
「さらに、散らばったこのガラス片か。これは犯人と英二さんが揉みあった結果なのか、シャンデリアが落ちた衝撃で落ちたものなんですかね?」
私がそう言うと、黒崎医師が手袋をつけてガラスの破片をつまみ上げる。
「これは、おそらくグラスの破片ですかね」
黒崎がつまみあげてじろじろと観察しているとドアの方から柴崎さんが言った。
「差し支えなければこちらに模様などがわかるような大きな破片を渡していただけませんか。ここの部屋にそもそも在ったものか確認します」
私はすぐさまそれに応えるべく比較的形のとどめられている破片をひとつだけ取って、念のために手袋をつけた柴崎さんに手渡す。柴崎さんは数回ほど裏返したり、光にかざしながら観察してから小さくうなづいた。
「これは間違いなく物置に常備されていたグラスです。海外のブランドでそれなりに高価なものなので外から持ち込まれたものとは考えづらいです」
「じゃあ、ここに置いているガラスの破片は被害者と犯人が争った結果、何かが棚にぶつかって落ちた。そして、その音を私たちが聞いて駆けつけたら英二さんの遺体だけがあって犯人はどこにもいなかったということね」
もしも犯人と英二さんが争って、そのせいでグラスが割れたのならどうやって犯人はこの場所から消えたのかが問題だった。そもそも、英二さんの遺体がドアの前にあったのならば犯人は脱出できない。
地下だから当然、外に逃げることはできないし、いくら焦っていたとしてもこの通路では逆走してくる人を見逃すことなどない。なにより、私と凪沙がこの部屋の前にたどり着いてから数分もしないうちに六花館の住人はすべてこのドアの前に集合した。犯人はどこから消えたのだろうか。
この部屋から英二の遺体をドアの前に置きながら脱出し、なおかつ私や凪沙の目に止まらないようにこの通路で脱出する。私の頭には答えどころか、それにたどり着くような式すらも立てられない。でも、凪沙には何か浮かんでいるのだろうか。
「あとは、なぜこの状況で英二さんが背後から刺されたのかよね」
「どういうことですか?」
凪沙の言っていることがわからなかったのか、今泉さんが聞いてくる。
「あなたなら父親と兄が続けざまに殺されていると考えられる状況で、自身は莫大な遺産相続争いの最中。いくら馬鹿でもこんな状況でそうやすやすと背中を見せるとは考えない。いや、そもそも二人きりになることも考えないでしょ」
「そうですな。可能性があるとすれば、英二坊ちゃまの中では容疑者から外れていたような人、あるいは相当魅力的なメモに吊られたのか。背中を見せたのは理解できませんが、自分なら勝てると思っている相手なら二人きりになるかもしれません」
英二が肉弾戦で勝てる相手。仮にも成人男性だから私よりはよっぽど強いだろうけれども、それが空手の有段者である柴崎さんを相手に油断できるほどだとは思わない。同じ理由で剣などが貯蔵されている倉庫で今泉さんを相手にするのも分が悪い。
確実に勝てる相手は私たちと久米さんぐらいだろうか。
「この部屋から本館へと戻るためには、この廊下を通る以外に道はないの?」
凪沙の質問に、ドアに寄りかかるように立っていた柴崎さんは答える。
「この道以外に通路はありません。犯人がここで英二様を殺害した後に確実にここを通って一階に出る必要があります。ここの掃除をする私と今泉が保証します」
柴崎さんの答えに、凪沙はノータイムで頷いた。
「そう、分かったわ」