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 リリアは彰の首根っこを掴んで後方に投げると、腰から短刀を取り出す。彰はもう戦える状態ではない。タケルに目をやるが、子供を抱えたうえ、片腕がねじ曲がった彼も戦えないだろう。まして、花屋の二人は尚更だ。

 このオオカミの化け物を止められるのはリリアしかいない。


「みんな、アタシの後ろに下がって」


 オオカミは唸り声を上げ、牙を剥き出しにする。しかし、その両目が睨みつけていたのはリリアの背後。必死に子供を庇おうとするタケルだった。

 それにリリアが気付いた時、既に目の前からオオカミの姿が消えていた。


「こいつッ――――!」


 以前、森で見たより数倍も速い。脇をすり抜けていく影に刃を合わせるが、毛先を僅かに掠め切るだけに終わった。


「逃げて!」


 叫ぶが遅い。オオカミは素早く腕を折りたたむと、タケルの喉元へ向かって爪を伸ばした。弱ったタケルは、もはや逃げようとはしなかった。胸の内にしがみつく子供を守らんと、鋭い爪に背を向け、その身を盾にしようとする。

 しかし。


「…………待って」


 か細い声が、その爪を止めた。タケルの胸の中から、小さな腕が伸びる。


「だいじょうぶ…………。あいつもいないよ………………」


 誰も何も言わずに、彼女の小さな腕を見つめる。オオカミの青色の瞳だけがピクリと動いた。


「だから……、もう………………アタシはだいじょうぶ…………」


 オオカミは爪と牙を収めると、小さな手のひらをペロリと舐めた。そして、ぬるりと身体を持ち上げると、まるで何事もなかったかのようにタケルに背を向けて歩きだした。

 呆然としていたリリアは、ハッと我に返って短刀を構える。ところが、オオカミはその横を悠々と通り過ぎ、そのまま森の中へと消えていった。


「その子は…………?」


 消えた影を目で追いながらリリアは尋ねる。タケルは虚ろに目線を左右させながら、小さな声で答えた。


「俺の娘………………ノゾミ…………。あんたらの……………………」

「ノゾミ……? アタシたちの? 何?」

「アキラさんと…………」


 その時、森の奥から巨大な地鳴りがした。振り返った先で、青い空高く火柱が上がる。リリアが再び視線を戻したとき、彼の意識は既に途切れていた。


◇◇◇


 剣を握る手に汗が滲む。身の内側から炙られているような痛みを感じた。


「魔獣…………、いや魔人か……………………」


 目の前の生物は、もはや人間とは呼べない姿をしていた。

 四肢の筋肉は皮膚を裂いてなお肥大化し続け、幼児が作った粘土人形のような出で立ちをしていた。額から生えた歪な角は、頭部の出血とともに天を差すように伸び続けている。しかし、その口元には相変わらず不気味な笑みが浮かんでいた。

 進化を求め続けた男と、闘争を求め続けた男。二人の狂気が混ざり合い、一つの怪物として今、この世に具現化したのだ。


 剣を構えたアクレスの足元が揺れる。それは不規則に振動し続ける地面のせいだけではないかもしれない。自然と腕輪に手を伸ばしていた自分に気付き、アクレスは苦い笑みを浮かべた。


「どこまでやれるか…………」


 見据えた先、エナスが静かに地面を蹴った。それに合わせてアクレスが短く息を吐くと、その周囲を囲うように赤い炎がチラチラと揺れる。

 速度はユドラーに劣る。が、目では終えてもアクレスの身体は限界が近かった。余裕をもって避けられるほどの動きはできそうにない。

 砲弾のような迫力で迫る拳を、半ば倒れるようにして躱す。同時に、エナスの胸元へ剣先を滑り込ませた。裂かれた皮膚に描かれていた構築式は機能していない。身体の硬化はできないはずだった。


 ところが、アクレスの手に返ってきたのは岩盤に剣を叩きつけたような感触。肥大化した胸板が、まさに岩石のような硬度で刃を弾き返したのである。

 咄嗟に小さな火柱を起こして、転がるようにして距離を取った。エナスの全身を飲み込んだ炎はしばらく燃え続けた後、風船がしぼむように一気に弱々しくなって消える。


「はは…………」


 アクレスの口から乾いた笑いが漏れる。黒く焦げた地面には、変わらずエナスが立っていたのだ。

 もはや打つ手はない。アクレスの手が再び腕輪へと伸びる。

 ただ、斬撃も防がれ、炎も効果が薄く見える。完全にメテアの力を使ったとして、果たしてこの男に有効な攻撃ができるかは疑問だった。だが、やるしかない。

 震える手が腕輪を掴んだ、その時だった。


「――――ッ!」


 エナスは振り返って腕を伸ばした。その先に見える強烈な閃光。


 次の瞬間、赤色の熱線がエナスの手のひらを貫いた。


 小さな瓦礫を吹き飛ばすほどの衝撃波が辺りに走った。身を屈めて耐えたアクレスは、目の前のエナスの姿を見て大きく目を見開く。

 熱線が直撃した彼の左腕は跡形もなく消し飛び、その肩口は溶岩のように赤熱していたのだ。あの火柱でビクともしなかったエナスの身体を焼き飛ばすとは、恐るべき熱量である。


「ヘクターか!」


 間もなく、アクレスの目は崩れかけた館の中でヘクターの姿を捉えた。彼が構えていた巨大な狙撃銃は、出発前にソフィアが託した「小型熱光線銃 試作初号」と呼ばれていた銃だ。


 その瞬間、アクレスは自身の役割を理解した。

 今、有効打を与えられるのはヘクターの狙撃銃のみ。だが、次弾装填まで時間を要するという話は聞いていた。つまり、それまでヘクターを死守することができれば、エナスを討てる可能性がある。

 アクレスは、ヘクターとエナスの間に素早く割り込んで剣を構えた。


「先の英雄も今やただの盾か。時代の流れってのは早いな」


 これまで、攻撃をいなしてこれたのだ。隻腕のエナスを止めるくらいならばできるかもしれない。

 そう思っていたアクレスだったが、その考えはすぐに消えた。


 エナスの左腕が生えてきたのだ。それも肩からではない。地面から、まるで樹木が伸びるように、人間の腕の形状をした土の塊が生えてきていた。

 彼はそれを引き抜くように取り、自身の左肩にグイと押し付ける。その土の塊はビクビクと震えたかと思うと、さも元から付いていた腕かのような自然な動きで拳を握りしめたのである。


 変わらずエナスの顔には笑みが浮かんでいる。

 アクレスは呼吸を整えてから地面を蹴った。有効打がない以上、先手を取り続けるしか止める手段はない。

 しかし、エナスはそれを迎え撃つことはしなかった。その場で大きく右の拳を振りかぶると、足元へ鋭く振り下ろしたのだ。


 鳴り響く轟音。森の木々が唸り声のような音を立て、鳥たちが慌てて飛び去っていく。アクレスの背後で、館が倒壊する音が聞こえた。


「――――ッ!?」


 そして次の瞬間、アクレスの身体は宙を舞っていた。隆起した大地がアクレスの巨躯を弾き飛ばしたのである。

 放射状に割れた大地の中心で、エナスは笑っていた。笑いながらアクレスを見上げ、そして崩れかけた館を指差す。


――――守ってみろ


 彼の目はそう言っているように思えた。


 エナスは走り出した。

 ひび割れ、波打つ大地の上を、まるで草原を駆けるような軽やかさで走った。館の二階、自身の背丈ほどある銃を担いで逃げようとするヘクターを見つけると、一気にその速度を上げる。


 ヘクターは舌打ちすると、狙撃銃を捨てて腰から拳銃を抜いた。そして、眼前へ躍り出てきたエナスに照準を合わせ、引き金を引く。

 狙うは、唯一、弾丸が通るであろう眼球である。

 大きく揺れ、今にも崩れそうな床の上。それでもヘクターの狙いは正確だった。放たれた弾丸は、エナスの眼球へと吸い込まれるように空気を切り裂いていく。


 ところが、眼球が貫かれるより速く、エナスの手が弾丸を握りつぶしていた。


「ありえねぇ………………」


 呆然としながら呟くヘクターに、エナスは弾丸を握りしめた拳を、そのまま大きく振りかぶる。

 地面を割る拳をその身に受けて、無事でいられるわけがない。避けられない死を前にしてなお、ヘクターは「ありえねぇ…………」と呟いた。


「逃げろォッ!」


 その時、アクレスの叫び声がヘクターの意識を現実に戻した。直後、頬が焼けるような熱気が全身を飲み込む。

 ヘクターは拳銃を捨てて、巨大な狙撃銃を引っ掴むと、エナスとは反対側の廊下へ走り、床に伏せた。


 振り返るエナス。しかし、その目がアクレスの姿を捉えるより先に、視界が紅蓮に染まる。


「――――ッガ…………ッグクッ………………!」


 巨大な火柱に飲み込まれ、エナスの口からくぐもった音が漏れる。耐えきれないほどの熱に身を丸めようとすると、途端に視界が開けた。

 その目の前に現れたのは、剣を握りしめたアクレスだった。


「ッぬん!」


 下から振り上げられた剣。これまでと同じように身体で受け止めたエナスだったが、その重さは今までのそれとは段違いだった。岩のような筋肉を裂くまではいかずとも、その身体を、まるで大砲の弾のように遥か上空へと打ち上げたのである。


「はぁッ………………!」


 大きく息を吐くと、アクレスはその場に膝をついた。


「アクレスさん…………!」


 駆け寄ったヘクターは、彼の腕を見て言葉を失った。その腕には、彼の魔力消費を抑える腕輪が無かったのだ。

 何か言おうとしたヘクターだったが、アクレスは剣を床に突き立ててそれを遮った。


「出し惜しみして勝てる相手じゃない! 隙は作る! 次弾装填急げ!」


 有無を言わさぬアクレスの指示に、ヘクターはただ一言「了解」と答えるしかなかった。

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