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リリアは立ち上がると、うなだれた鴉の両腕を糸できつく縛った。噴き出していた血は勢いを弱めるが、それだけで止血ができるわけもなく、両膝をついた鴉の両側にできた小さな血だまりは、少しずつ広がっていく。
「あの時、どうしてアタシを逃がしたの?」
リリアは鴉を見下ろして再び尋ねる。鴉は低い声で呻きながら青白い顔を上げると、苦しそうに笑って首を横に振る。
「言わねぇよ…………」
「言うまで死なせないから」
「………………そらぁ……優しいなぁ…………」
鴉は苦笑して目線を逸らす。しばらくの沈黙の末、彼は口を開いた。
「良いじゃねぇか………………。俺ぁ、お前の親父の仇で…………、お前は遂に恨みを晴らせた…………。それで良いじゃねぇか………………」
鴉は俯きながら呟いた。両腕を縛る糸が緩んでいたが、そこから落ちる血の量が減ってきていた。血が止まったのではなく、もはや流れ出るほどの血が残されていないのだ。
死が間近に迫っている。
鴉は自身の意識が遠のいていくのを感じていた。痛みはなく、まるで一仕事終えた後の夜、静かに寝床で横になった時のような穏やかな眠気。
分厚い雲が日差しを隠した。ひやりとした冷たい風が鴉の前髪を撫でていく。
「…………良いわけない」
しかし朦朧としていた意識は、リリアの小さな声によって現実へ引き戻された。重たい頭を上げた鴉は、少し意外そうな様子で大きく目を見開いた。
「全然…………良くない………………!」
絞り出すような声だった。リリアの目から涙が溢れ、頬を伝って地面へと落ちる。
「アンタにとっては、たった数年の記憶かもしれない………………。でもアタシにとって、お父さんとアンタと三人で過ごした日々は、今でも忘れられない大事な思い出なの…………!
アンタを憎んでるって? 本当にそう思ってる?」
リリアは涙を拭うこともせず、まっすぐに鴉を見つめると、震える声で続けた。
「憎めるわけないでしょ………………! アンタもお父さんと同じ…………大事な家族だから…………!」
鴉は唖然とした表情でリリアを見つめると、何も言えないまま顔を落とした。
「………………アンタにとって、アタシは何だったの?」
風が森を揺らした。二人は黙り込んだまま、ただ時間だけが流れていく。
やがて、鴉の両腕から滴る血が止まるころ、ようやく彼は口を開いた。
「これから酷い時代が来る………………。死にかけの俺に殺される程度なら…………この先も長くはない………………。だから、せめて俺の手で殺してやろうと思った………………」
擦れたような声を絞り出しながら、鴉は一言一言を噛みしめるように語った。
「あの時も同じだ……………………。狐や梟の玩具にされるなら…………、せめて俺の手で殺してやろうと思ったんだ………………。だが奴は死に際、こう言ったんだ………………。『リリアを頼む』ってな…………」
「……お父さんが?」
「酷い野郎さ………………。逃がした理由はそれだ…………。俺も馬鹿だよなぁ…………」
笑おうとして、鴉は咳き込んだ。リリアは思わず彼の身体を支えて、その背中を擦った。
「俺はガキの育て方は知らん………………。だが、生かす方法なら分かる………………。死ぬほど憎い相手を作ってやるんだ……………………。憎悪は人を殺すが、時に人を生かす力もある………………。だから、目の前で親父を殺してやったんだ………………。だが………………上手くいかねぇもんだな…………」
鴉は自分を心配そうに見つめるリリアを見て、困ったような顔で笑った。
「あのチビ助が………………本当にデカくなったなぁ…………」
雲が流れ、再び日の光が差し込む。
「行け、リリア」
鴉ははっきりとした声で言った。
「もう誰も憎む必要はない。これからは自由に生きるんだ」
「………………」
「俺は十分自由にやった。今さら寝床で死ねるとは思ってねぇよ。最期にお前に会えて、それだけで俺は満足さ」
それでもリリアは離れようとはしなかった。これまでの時間を取り戻すように、ただ黙って、彼の身体を抱きしめていた。
森のどこかでカラスが鳴いた。
リリアは大きく息を吸うと、思いきり鴉の身体を抱きしめる。
「ありがとう、おじさん」
「おう」
「お父さんと待ってて」
「慌てて来るなよ」
「分かってる」
リリアは涙を拭うと、鴉の身体を優しく寝かせた。そして、彼の額にそっと口づけすると、くるりと背を向けて歩き出した。
鴉はその背中を見送ると、頭上に広がる空を見上げる。
突き抜けるような青さの中を、一羽のカラスが飛んでいた。何にも縛られず、広がる空が自分のものだとでも言うように、自由に飛び回っていた。
「良い空だな………………」
小さく呟くと、彼はゆっくりと瞼を閉じた。
◇◇◇
「アイツはもう良いのか?」
リリアに肩を担がれながら彰が尋ねる。力強く「大丈夫」と答えるリリアに、彰もそれ以上尋ねることはしなかった。
複雑に木の根が這う森の中を、ゆっくりと歩いていく二人。一歩、そして一歩と歩を進める中で、二人の交わす言葉の数は次第に減っていった。
「アクレスたち、大丈夫かな」
ついにリリアが零した。
森から街まで、このペースではしばらくかかる。その間、エナスを足止めしなければならないのだが、頼みの綱であるアクレスは入院していた体なのだ。
二人の心を不安の影が蝕んでいく。
「もしも…………」
最悪の事態が頭を過ぎった彰が、それを口にしようとした瞬間だった。巨大な地響きが森に轟いたのである。
思わず倒れこんだ二人は、館の方角を振り返った。だが、どれだけ探しても赤い炎は見当たらない。
「なぁ、リリア」
何か言おうとした彰だったが、リリアは「行くよ!」とそれを遮ってかれの身体を引っ張り上げた。それに引きずられるように、彰も無言で頷いて立ち上がる。
肩を貸しながら、リリアは眉間にシワを寄せる。
「俺を置いていけ、とか言っても無駄だからね!」
「……もし言ったら?」
「縛って引きずっていくから!」
「それはやだなぁ」
彰は笑うと、包帯を巻いた片足を引きずりながら、白老山を背にゆっくりと歩き始めた。
しばらく歩くと、やがて開けた場所に出た。遠くにぽつんと建つ小さな建物が見えた。フローラの花屋である。
店の前には、先ほどの地鳴りを聞いてか、不安そうに辺りを見回すフローラと、その父が立っていた。
「あとちょっとで街だよ!」
リリアが声をかけるが、彰の方は「おう」と小さく答えただけで、それ以上は何も言わなかった。彰の足に巻いた包帯から、ポタポタと血が滴っている。応急処置はしたものの、無理に動いたせいで止血した傷が開いたのだ。
「ちょっと! 大丈夫!?」
二人の姿に気付いたフローラが、慌てて駆け寄ってきた。
「怪我してるんです!」
「それは見たら分かるわ! 何が…………ひぃ!」
言いかけたところで、フローラは森の方へ視線を移して腰を抜かした。リリアも振り返ると、そこにはボロボロのタケルが立っていた。治療中だったはずの左腕は捻じ曲がっており、何故か彼の胸には小さな子供がしがみついている。
タケルは彰とリリアの姿を見ると、青白くなった顔を嬉しそうに輝かせた。
「あ…………アキラさん! 良かった! 無事だったんだな!」
「これが無事に見えるか?」
「おい! アンタら! 森で一体何が…………ひぃ!」
遅れて駆け寄ってきたフローラの父親だったが、彼も森を見るなり、その場で腰を抜かしてしまった。
一拍遅れて、その場にいた全員が森の入口を振り返る。
そこに立っていたのは、片腕の無い、二足歩行の巨大なオオカミだった。




