62
とある街を見下ろす丘の上。そこに古いログハウスが一軒建っていた。
割り終えた薪を背負子にくくりつけ、一人の男が家へと歩いてくる。その姿を見て、家の前の小さな椅子に腰掛けていた女が手に白い息を吐きかけてから立ち上がった。
「おかえり、タケルくん」
「家に入ってろよ、ミコト。冷えるだろ」
ミコトは少し大きくなったお腹を撫でて笑う。
「心配しすぎ。自分の体は自分が一番分かってるから」
「そうは言うが………………ほら見ろ」
タケルは分厚い曇天を見上げた。白い雪が風に揺れながら、タケルの鼻先に触れて融ける。
「冬だね」
ミコトはしみじみと言うと、赤くなった鼻を指で擦った。
「もしもさ、いつか元の世界に帰る方法が見つかったとして、タケルくんはどうする?」
「どうする、ってのは?」
「帰るかどうかってこと。もうこの世界にもだいぶ慣れてきちゃったでしょ? だから、どうしたいかなぁ、って」
ミコトとタケルが転移してから、一年が経とうとしている。初めこそ苦労だらけの毎日だったが、言葉も通じる上に、気候も日本と大きな変化はない。何よりも、転移したのが一人ではなかったのが不幸中の幸いだった。
銃火器を扱う工房の仕事を見つけ、友人もできた。その友人から、使われなくなったログハウスを譲り受けた。
正直、ここの暮らしも悪くない。あの時代の日本に帰るより、よほどマシだ。
「ミコトはどうしたいんだ」
タケルは聞き返した。ミコトは眉を少し上げて「アタシ?」と言うと、しばらく考えてから答えた。
「ここでの暮らしも悪くないよ。食うにも困らないし、家もあるし。タケルくんは帰りたい?」
「…………俺はミコトのいる場所にいるよ」
「ふふ。ありがと」
ミコトは嬉しそうに笑うと、愛おしそうにお腹を撫でた。
「この子にとってはここが故郷になるんだね」
「そうだな」
街にポツポツと明かりが灯り始めている。その光景は薄暗い中に浮かぶ星のようで、タケルとミコトは何も言わずにそれを眺めていた。二人の髪に白い雪が降りる。
「そうそう。この子の名前、考えてたんだ」
ミコトが切り出した。
「この子は、アタシたちの希望の光。だから名前は――――
◇◇◇
「ノゾミ…………?」
少女は充血した目を向ける。胸元に揺れる青い宝石が鈍く輝いた。
ややカールした栗色の髪。少し上を向いた鼻先。大きく見開かれた目を縁取る長いまつ毛。
顔は酷くやつれ、歪な角が生えているが、少女の持つ面影は、タケルに一つの可能性を突きつけていた。
タケルは銃を捨て、恐る恐る両手を上げる。
「………………敵意はない。ここから一緒に」
「こ、来ないでッ――――!」
三度目の衝撃波。
全身が軋むような音を上げる。咄嗟に顔を覆った左腕からバキという音が聞こえた。
だが、初撃よりも威力は落ちていた。
「うグッ…………」
少女は髪を掻きむしりながらうずくまっていた。その間も絶えず放たれ続ける衝撃波。
天井からパラパラと砂が落ちてきた。地下室が崩れるまで、もう時間がない。
このまま逃げるか?
冗談じゃない。
あんな子供を置いて逃げるなど、たとえそれが自分の子供でなかったとしてもできるわけがない。
体勢を低くし、一歩、そしてまた一歩と、歩みを進めていく。そして、うめき声を上げる少女へと右手を伸ばした。
「来い――――ッ! 掴まれ! ノゾミ!」
衝撃波がピタリと止んだ。伸ばした右手に、小さな手が触れる。
その直後、天井の煉瓦が割れた。
「ぅぐッ…………!」
右腕に走る激痛に耐えながら、力を振り絞って小さな体を引き抜いた。その勢いのまま少女を抱きかかえ、地下室の廊下を転がる。煉瓦の崩れる音がした。
「大丈夫だ…………。もう、心配ない…………………………」
必死にしがみつく小さい命を抱きしめて、タケルは素早く立ち上がった。左腕は動かなかった。右腕も酷く腫れあがっている。ただ、不思議と痛みは感じなかった。
「離すなよ」
少女の体を担ぎ上げると、タケルは地下室を走り出した。
◇◇◇
アクレスは背後、食堂のある場所に巨大な気配を感じた。冷たく、静かではあるが、それは目の前にいるエナスと同質の、人間というよりも猛獣に近い気配。そして、それはアクレスにとって十分に脅威となり得る存在であることを物語っていた。
振り向くべきか。だが振り向けば、エナスに大きな隙を晒すことになる。
「アクレス!」
背後から聞こえたその声は、タケルのものだった。アクレスは振り返らずに答える。
「タケル! 『それ』は何だ!」
「あ? 『それ』ってなんだ?」
「お前の近くだ! 何かいるだろう!」
「ん…………? あぁ、大丈夫だ。今は寝てる」
「寝て……、何だと? 何が…………」
思わず振り返ろうとしたアクレス。しかし。
「アクレス! 前だ!」
タケルの鋭い声で視線を戻した。同時に、剣を構えたアクレスの全身に身の毛のよだつような寒気が走る。
先ほどまで項垂れていたエナスは、体を起こして赤く充血した目でアクレスを睨みつけていた。もともと大柄だった体格は以前にもまして肥大化しており、ところどころで皮膚を割いている。そして、その傷からは血の代わりに赤黒い結晶が析出していた。
その赤い結晶には、アクレスにも見覚えがあった。
「逃げろ!」
アクレスが叫ぶより早くタケルは走り出していた。エナスはその後姿を目で追うことなく、じっとアクレスだけを見据えている。
首筋から顔にかけて、赤黒い血管が木の根のように浮き上がっており、その形相はもはや以前とは別人のようにさえ見えた。ただ彼の口元には、依然として薄い笑みが浮かんでいた。
先に動いたのはエナスだった。
彼は全身に走る痛みに身をよじったかと思うと、大きく仰け反った。そして、叫ぶように大きく息を吐くと同時に、その額を地面へ叩きつけたのだ。
地鳴りのような音が森中に響き渡った。アクレスの足元は荒れ狂うように波打ち、あちこちで地割れが起こる。
いくら力が強いといっても、頭突きだけで地面を割ることはできない。力だけではない、何か別の『超自然的な力』によってエナスは地面を割ったのだ。
「精霊………………」
アクレスの呟いた言葉に応えるように、エナスはゆっくりと体を持ち上げる。
彼の額にできた傷からは、血が流れる代わりに、小さな赤黒い角が生えていた。
◇◇◇
森の中は薄暗く、硬い地面には太い木の根が這っていて歩きづらい。そのうえ、最近の意図せぬ不摂生のせいか、彰の足元はどこかフラフラとおぼつかなかった。
心配そうに振り返るリリアに「大丈夫」と答える彰だったが、見かねたのかリリアは彰の手を握った。
「大丈夫だって」
「危ないでしょ。無理しないで」
リリアに手を引かれながら、足早に樹海の中を進んでいく。サミュエルの屋敷は、いつしか森の奥へと消えていた。
「…………システィは?」
不意に尋ねると、リリアは足を止めて振り返る。
「まだ目を覚ましてない」
それだけ答えると、リリアは唇を噛みしめて彰の胸に頭を預けた。彰は何も言わず、震える小さな肩を抱きしめる。
直後、鋭い殺気が走った。振り返るより早く、彰の頬を一振りのナイフが掠め飛んでいった。
「よう。安心するには早いんじゃねぇか?」
突然聞こえた声。彰はリリアを背後に庇うと、ヘクターから借りた剣を抜く。
警戒していなかったわけではない。それでも、声がするまで気配にまったく気づかなかった。
歪に捻じ曲がった木々の間に立っていた声の主は懐からナイフを取り出す。
「家に帰るまでが仕事だって、お前もオヤジに教わったろう。なぁ、リリア」
鴉はそう言うと、不敵な笑みを浮かべた。




