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「アクレスさん!」
背後からのヘクターの声がする。だが、アクレスは剣を構えたまま動けずにいた。
「アキラとリリアは?」
「逃げました」
「よし」
「…………なんですか、あれは」
「エナスだ」
冷静に返すが、その内心は穏やかではない。
両手をダラリと下ろして項垂れるエナス。全身に刻まれた構築式は赤い発動光を放ち、まるで赤色の蛇が全身を這い回っているようにも見えた。
彼は空になった注射器を投げ捨てると、半分焼け爛れた顔をゆっくりと起こす。そこには薄っすらと笑みが浮かんでいた。
そこにいたのは、人の形をした狂気だった。ただ、同じ狂気でもユドラーとは別である。
彼の場合は、理性的な狂気とでもいうような、狂った自身を俯瞰で認識しているような風だった。しかし、エナスの場合は、興奮した野生動物が持つような本能的な狂気に近い。
すぐにアクレスは「まともな戦闘にならない」と直感した。
「あの注射器は?」
ヘクターが尋ねると、アクレスは「知るわけねーだろ」と答えた。
「ただ、あの赤い光は『解放術式』の発動光で間違いない」
「カイホージュツシキ?」
「五年前にソフィアが開発して、禁術になった構築式だ。無意識下での魔力制限を解除して、死ぬまで魔力を使い続けられるようになる」
やけに詳しい解説を聞いて、ヘクターはアクレスの腕輪をチラリと見た。
「俺が撃ちます。アクレスさんは防御に徹してください」
「おう」
「…………それ、外さないでくださいよ」
アクレスは何も言わずに笑った。ヘクターもそれ以上は何も言わず、再び館の中へと走っていった。
◇◇◇
階段を降りた先には、石造りの廊下が続いていた。地下倉庫として使われていたのか、幅三メートルほどの広い廊下の両側には鉄の扉が並んでいる。空気は湿っていてカビ臭く、壁に幾つかランプが灯っているものの、ぼんやりと薄暗い。
真っ直ぐに伸びた廊下の先に、小さな人影が見えた。ヨタヨタと走るその人影は、間違いなくサミュエルである。
「はぁっ…………! はぁ………………っ! おい……! 追ってきてるじゃないか…………! エナスめ………………!」
途切れ途切れに彼の声が聞こえてくる。
かなり距離はあるが、あの速度であれば簡単に追いつけるだろう。しかし、廊下へと踏み込んだその瞬間、足が止まった。
その原因は異様なほどの寒気。これは気温のせいではない。
恐怖しているのだ。この地下室の奥にいる「何か」に。
だが、躊躇している時間は無い。タケルは拳銃を握りしめると、本能を理性で押し殺し、重い一歩を踏み出した。
前方を走るサミュエルが、チラリと振り返った。タケルはその背中に銃口を向けるが、走りながらでは照準が定まらない。引き金を引いたとして、その弾丸が彼の急所に的中してしまっては、ミコトの居場所を聞き出すことはできなくなってしまう。
殺したいが、それは今ではない。
銃口を下ろし、地面を蹴る脚に力を籠めた。
その時、突然サミュエルは廊下脇の扉に手をかけた。ガチャガチャと錠を開け、その中へ転がり込む。
何をしたのか、彼はすぐに出てくると、少し廊下を進んだ先で振り返った。
その時の彼の顔に浮かんでいたのは、勝利を確信したような余裕のある笑み。
咄嗟に銃を構えようとするタケルより早く、彼は廊下の壁に取り付けられた小さなレバーに手をかけた。
「はぁ……! はぁ…………! さよならだ! 名も知らん転移者よ!」
「戦争屋ッ――!」
タケルが叫ぶのと同時にサミュエルはレバーを引く。直後、二人の間にあった廊下の天井が、壁が、音を立てて崩れ始めた。乾いた銃声と共に放たれたタケルの弾丸は、積みあがった瓦礫の山の中でカン、と軽い音を立てて、土煙の中に消えていった。
「クソッ!」
引き返して地上から追うか。タケルの頭を過ぎった考えは、一瞬にして霧散した。
前方の扉から、小さな影がふらりと現れたのだ。
それは自身の身長の半分ほどしかない、五歳くらいの子供だった。
ただ、その輪郭を確かめるよりも早くタケルは悟った。自分が恐怖していたものは、この地下にいた「何か」は、今目の前にいる子供なのだ、と。
半ば反射的に銃口を向けようとしたタケル。その動作の機微を読み取ってか、その子供は頭を抱えてうずくまる。
その動作には殺気も敵意も無い。そこにあったのは、タケルの銃に対しての純粋な恐怖のみだった。
ただの子供か?
タケルは慌てて銃を下ろすと、その子供に向かって声をかけた。
「あぁ、悪かっ………………」
「来ないでッ!」
少女の絶叫が空気を切り裂いた。それは決して比喩表現ではない。不可視の衝撃波が煉瓦造の壁を割り、無防備なタケルの身体を襲った。
衝撃が骨を伝い、全身を電流のように駆け巡る。大柄な方のタケルだが、その体はまるで紙切れのように後方へと弾き飛ばされた。
痛みをこらえながら、手近にあった鉄扉を蹴り開けて中に転がり込む。
「化け物屋敷か…………!」
一瞬ではあるが見た目に騙されていた。
アーチ状に組まれた天井からパラパラと砂埃が落ちる。このままでは地下室が崩れてしまうだろう。瓦礫に潰される前に地上へ回るしか道は無い。
あの化け物の攻撃を背に逃げ切れるか。
殺すか?
怯えた小さな影が瞼の裏に浮かぶ。
廊下で再び衝撃音が響いた。部屋の壁が音を立てて崩れ落ちる。迷っている時間は無い。
握りしめた銃を見つめて、タケルは短く息を吐いた。
部屋から飛び出して銃口を向ける。そこで初めて少女と目が合った。
「あ……………………」
タケルの手が止まる。
少しカールした栗色の髪の毛。その前髪を掻き分けるように、額からは角と呼ぶにはあまりに歪な、赤黒い石のような塊が生えている。形状は違うが、まるで魔獣の角のようだった。
だが、それよりもタケルの目を奪ったものがあった。
それは、少女の首元で小さく揺れる、深い青色をした宝石。
「ノゾミ……………………?」
タケルが呟くと、少女は僅かに顔を上げた。




