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遠吠えは仲間に何かを伝えるためか。いずれにせよ、このまま待っているわけにもいかない。アクレスは剣を強く握って走り出す。それを合図に、タケルとヘクターも左右は別れて回り込むように走り出した。
アクレスの剣が紅く染まる。
「ふんッ――――!」
横に薙ぎ払った剣は、いとも容易く木の幹を割った。その切り口は真っ黒に焼け焦げ、かすかに煙が上がる。逃げなければ当然輪切り、木から離れたとしてもタケルかヘクターの弾丸の餌食になる。
しかし。
「まだだ!」
アクレスは叫んだ。肉を斬った感触が無かったのである。
木の背後から飛び出した影はなかった。突如として目の前から消えた獣に、三人は一瞬硬直する。
「上!」
その時、三人の背後でリリアが叫んだ。見上げると、倒れつつある木の上で大きな獣の影が月明かりに浮かんでいる。タケルとヘクターは同時に引き金を引いたが、それよりも早く獣は飛んだ。
獣の狙いは初めから一人。後方に立っていたリリアであった。
着地した獣は、弾き飛ばされたようにリリアへと向かっていく。その速度は、およそオオカミや、ましてや人間の出せるものでは無い不自然な速さだった。アクレスも引き返すがその距離を縮めるよりも、獣がリリアへ届く方が早い。
リリアは怯えた様子で数歩退くが、足を滑らせて体勢を崩した。生まれた大きな隙を前にして、獣はリリアの細い首を掻き切らんと鋭い爪を伸ばす。
だが、野性的な本能が危険を悟ったのか。獣は、その体に突然ブレーキをかけ、素早く身を引いた。直後、キィン、という甲高い音がその耳元で響いた。
「ガッ………………!」
罠だと理解したときには、右腕が宙を舞っていた。飛び散る鮮血の向こうでは、先程まで怯えていたはずの少女が、冷徹な殺人者の顔をしてこちらを睨んでいた。
右腕に走った鋭い痛みが、異常なまでに熱く燃え上がった闘争本能を一瞬にして冷ます。同時に、秘められていた僅かな理性がその思考を支配した。
サミュエルから与えられた任は索敵。可能であれば排除するが、それは絶対ではない。なぜなら、館には自身の実力を遥かに凌ぐ「兄」がいるのだから。
敵の存在は報せた。あとは逃走すべきだったのだ。
背後から、明確な殺気を感じる。もはや振り返る暇もない。差し迫る死の気配に獣の脚部の筋肉は通常の倍に肥大していた。
アクレスの剣が獣の首元へ振り下ろされるより早く、獣は右腕を残して、弾丸のような速度で深い森の中へと消えていった。
◇◇◇
彰は戸惑っていた。目の前には開け放たれた鉄扉があり、その手には紙の切れ端が握られている。改めて切れ端を見るが、やはり書いてある文言に変化はなかった。
『かぎはあける じきを みてにげろ』
拙い平仮名ではあったが意味は理解できる。ただ、何故逃がすのか、その意図は理解できなかった。
彰は紙切れを裏返し、書かれている文字を見つめる。「ちちおや だった」と書いてあるが、過去形ということは今は違うということか。
「謀反でも起こすつもりか?」
それならば乗らない手はない。罠ということも考えたが、彰に対して罠を仕掛ける意味もないはずだ。
問題はいつ逃げるか。
すると、扉の向こうから何者かの走る音が聞こえてきた。それも一人ではない。咄嗟に小さな机を盾にして扉の向こうを窺っていると、その足音の主が現れた。
「リ、リリア?」
「…………アキラ!」
呆然とする彰を見るなり、リリアはその胸に飛び込んだ。
「リリ」
「ちょっと黙ってて」
強引に遮ると、その存在を確かめるように強く抱きしめた。苦しいほどに締め付けられて、彰もようやく笑みが零れる。そのまま静かにリリアを抱きしめて尋ねた。
「助けに来てくれたのか?」
「うん」
「ありがとう」
「うん」
「なんだか助けられてばっかだな」
その時、遠慮がちなノックの音が聞こえてきた。
「取り込み中に悪いが、そんなことをしてる場合じゃないぞ」
顔を上げると、微妙な表情をしたヘクターが部屋の入口に立っていた。
「今、アクレスさんとタケルが戦争屋を探し回ってる。いずれエナスって奴との戦闘も始まるはずだ。それより先に二人は逃げろ」
「ヘクターさんは?」
「俺は二人の加勢に行く」
ヘクターは背負っていた木箱を床に下ろした。人の背丈くらいの大きな箱である。
「なにそれ?」
彰が尋ねると、彼は箱に付いていた錠を開けて見せた。
「秘密兵器。実地試験をソフィアさんに頼まれちゃってさ………………」
中に収められていたのは、二つに分解された長銃だった。ヘクターによって手際よく組み立てられた銃は、巨大なスナイパーライフルのような形をしていた。
彼はそれを肩に担いで部屋を出る。
「街の宿屋まで行け。ここの事は俺たちに任せろ」
俺も行く、と言いかけた彰だったが、武器も何も無いことを思い出して黙り込んだ。その上、相手はエナスだ。行ったところで足手まといにしかならない。
『やはり、力が欲しいのだロ?』
不意に背後から声が聞こえた。あの時の精霊の声だ。しかし、振り返るが何も居ない。
リリアはその様子を不思議そうに見つめながら「大丈夫?」と尋ねてくる。彰は首を横に振って、彼女の腕を掴んだ。
「なんでも無い。早く行こう」
ヘクターに礼を言うと、彰はリリアと二人で廊下を駆け出す。すると、ヘクターは慌ててその後ろ姿を呼び止めた。
「アキラ、これ持ってけ」
そう言って投げて寄越したのは、彼が腰に下げていた軍刀だった。
「俺は剣はからっきしなんだ。お前が使え」
「ありがとう!」
改めて礼を言うと、二人は古びた廊下を走っていった。
◇◇◇
館の一階にある広い食堂。そこで遅めの朝食をとっていたサミュエルの手が止まった。
「今日、来客の予定は無いはずだが?」
彼の視線の先に居たのは二人の男。一人は腰から剣を抜き、もう一人は静かに拳銃を構える。
サミュエルは自身の脇に立っていたエナスを見上げると、その表情を見てため息を吐いた。
「その目を見るに、奴を…………、英雄と呼ばれる男を呼んだのはお前だな?」
その言葉はエナスの耳に届いていないらしい。彼は不気味な笑みを浮かべながら、眼前にいるアクレスから目を離そうとしない。
サミュエルは再びため息を吐く。
「教育を誤ったな、これは」
そう呟いて、ナイフとフォークを置いた。




