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唯一の窓からは、鬱蒼と茂った枝に邪魔されるせいで、朝の十数分程度しか日差しが入らない。この密室には時計もないため、時間を知るには木々の隙間から見える朝日だけが頼りだった。
その一筋の光を見送ると、今度はコツコツと床を歩いてくる音が聞こえてくる。やがて部屋の前で立ち止まると、ガチャガチャと錠を開ける音がした後に、重たげな音を立てて鉄扉が開いた。
立っていたのはエナス。襟の高いコートに身を包んでいる。
「おい、挨拶も無いのか?」
彰の言葉にはピクリとも反応がない。エナスは黙ったまま、手に持った盆からスープの入った器とパンを机に置いた。
「話し相手くらいにはなってくれても良いだろ」
彰が言うと、エナスはコートの襟を捲って、自身の刺青だらけの喉元を指差した。
そこにあったのは大きな傷痕。それも、ただの傷痕ではない。顎の下から真っすぐに伸びたそれを見て、彰は彼に尋ねた。
「………………手術の痕か?」
エナスは頷く。
「声を奪られたのか? あいつ…………、戦争屋に」
再び頷くエナス。それを見た彰は思わず言葉を失った。
この男も九頭竜のように金で雇われたのだと思っていたが、どうも違うように思えた。金ではない、洗脳に近いような、もっと強力な主従関係を感じるのだ。
そのまま出ていこうとするエナスに、彰は声をかけた。
「なぁ、なんであいつに従ってんだ。弱味でも握られてんのか知らないけど、お前ならなんとでもなるんじゃないのか?」
返答は無い。
「声まで奪った相手に、そこまでする義理は無いんじゃないか?」
エナスは彰の言葉を鼻で笑った。彼は懐から小さな紙と花柄の万年筆を取り出すと、何かを書きつけて彰に見せた。
「ち……ち……、おや…………?」
紙に書かれていたのは、「ちちおや」という拙い平仮名。すると、エナスは少し首を傾げて、更に書き足した。
「ちちおや、だった」
読み上げると、エナスは無言で頷いた。彰は無言で彼の顔を見つめるが、顔つきも体格も、親子らしい面影は見られない。
更に問い詰めようとした彰だったが、それを遮るように窓の向こうから遠吠えが響き渡った。狼にしてはどこか無理をしているような、唸り声のようなものが混じった奇妙な声だった。
「なんの声…………」
呟いた彰は、窓からエナスへと視線を移す。同じように窓を見ていた彼は、爛々と目を光らせて不気味な笑みを浮かべていた。
◇◇◇
街を出て白老山の方角へ森の中を進んでいくと、やがて大きな花畑が見えてくる。フローラの花屋はその中にポツンと佇んでいた。
「どうだ、売り上げは」
湯気の立ち上る湯呑を持った老人が尋ねた。窓際の机に座るフローラは小さなため息とともに答える。
「ボチボチね。ま、去年よりはちょっと減ってるかな」
「そうか」
台帳をパタリと閉じたフローラは、窓の外に広がる花畑を見て再びため息を吐く。老人がその横に湯呑を置くと、彼女は笑いながら「ありがと」とそれを受け取った。
「どっか遠くまで売りに行くかなぁ。あの常連さんも最近来なくなっちゃったし…………」
「あの常連? スミイリの奴か」
「スミイリ、ねぇ…………。そう、昔は毎日のように来てたこともあったじゃない」
「彼とはもう関わらない方が良いんじゃないか。どう見ても堅気の人間じゃないだろう」
すると、フローラは少し怒ったように「もう、お父さん」と言って老人に向き直った。
「またそんなこと言って。花を買うなら誰でも『お客様』よ」
「お客様に文字まで教えるか?」
彼は引き出しを開いて、中に入っていた紙の束を見せる。その紙には子供が書くような拙い平仮名が並んでいた。フローラは台帳をそこへ突っ込むと、勢いよく引き出しを閉めた。
「良いじゃない。減るものでもないし」
「入れ込みすぎるな、と言っとるんだ。彼らと私らとでは価値基準が違う」
「はいはい。もう聞き飽きたわ」
「フローラ」
「分かってるわ。でも、放ってはおけないでしょう? あの人、何にも知らないのよ。花を見たときの顔なんて、ホントに子供みたいで………………」
フローラは言葉を止めると、窓の外へ視線を移した。花畑沿いの道を歩く四人の人影が見える。その先頭を歩くのは、見覚えのある少女だった。
「リリアちゃんだわ」
「ん?」
「話したでしょ、昨晩会った子よ。早速来てくれたみたい」
「それは分かるが、後ろの厳つい三人組は何だ」
「さぁ。なんにせよ、お客様には変わらないでしょ」
フローラは立ち上がると、「いらっしゃい」と店の扉を開けた。
◇◇◇
フローラの父が現役だった頃、当時のサルフェンス家と取引があったらしい。古い台帳には、その館の場所が記されていた。
かつて、サルフェンス家は軍需工場の運営で財を成していた。ところが、役員による多額の横領事件をきっかけに破産。館も売り払い、一家は路頭に迷うこととなる。
それ以来、館は廃墟となって森に眠っているはずだったのだが。フローラの父にエナスが残した写真を見せると、「間違いない」ということだった。
その館へ向かう道中。本調子ではないアクレスを気遣って、一行は森の中で休憩を取っていた。
「脇は締めて照準を合わせるんだ」
拳銃を構えるリリアに、タケルが声をかける。
「ターゲットの少し上を狙って………………、あと、そいつは少し右に曲がる癖があるから、それも考慮する必要がある」
「『たーげっと』って?」
「あー…………、標的、マトのことだ」
「ふーん」
「合わせたら息を止めて、引き金を引く。反動に気をつけろ」
乾いた銃声が森に響いた。放たれた弾丸は木の幹を掠って奥へと消える。
「いってぇー………………」
リリアは反動で痺れた手を振る。抉れた幹を見て、タケルは嬉しそうに言った。
「初めてで当てられるとは。普通は掠りもしないのに」
「狙ったのは隣の木なんだけど」
「あぁ…………。まぁ、反動に耐えられるだけでも大したもんだ」
「それじゃ駄目だな」
すると、それを見ていたヘクターが、二人の背後から声をかけた。タケルはムッとしながら彼を振り返る。
「何が駄目なんだ」
「戦闘中、照準を合わせる時間は無いだろ」
「なら、どうするってんだ。お前は狙いも付けずに撃つのか?」
ヘクターは腰から銃を抜くと、照準を覗くこともせずに、流れるような動作で引き金を引いた。ジンと響く銃声と同時に、リリアの弾丸が当たった木の、隣の木の幹に深い穴が穿たれる。
リリアとタケルは、ただ呆然とその穴を見つめた。その横で、ヘクターは何でも無いような様子で淡々と語り始める。
「流れを見るんだよ。風だとか、相手の動きとか。その中に銃口を合わせてやる。後は引き金を引いて終わりだ」
「………………リリアさん、こいつの言うことは無視して良い」
「良くねーよ」
「おい、お前ら」
岩に座りながら見ていたアクレスが、疲れた様子で三人に声をかけた。
「銃の練習も良いけどな、銃声で敵にバレるかもしれないから止めておけ。それに弾丸も節約しろ」
この後、恐らくエナスと戦闘することになる。できる限り勝率を上げるならば、奇襲が最も有効だ。相手に存在を気取られるような行為は避けるべきである。
アクレスの言葉に、三人は反論すること無く銃をしまおうとした。しかし。
「待て」
アクレスはそれを制止し、自身も腰の剣を抜いた。それを構えながら、素早く背後を振り返る。
それを見ていたリリアは彼に尋ねた。
「どうしたの?」
「三人とも、戦闘の用意をしろ。何か来る」
「何かって、何が………………」
リリアはその続きを尋ねることはしなかった。その問いかけの答えが目の前に現れたからである。
鬱蒼と茂った森の中。そこに浮かぶ二つの青い瞳。やがて、枝葉の影から姿を表したのは、巨大な二足歩行のオオカミだった。
「魔獣…………じゃないな」
タケルはリリアに渡したのとは別に拳銃を取り出して呟く。
魔獣は赤く充血した両眼に、額から伸びる赤黒い角が特徴である。だが、目の前のオオカミには、その特徴は見られなかったのだ。
ただ、普通のオオカミではないことは確かだ。二足歩行、というのもそうだが、ヘクターの構えた銃を見て、素早く木の影へ身を隠したのである。
あまりに人間らしい動きに、ヘクターもタケルも、引き金を引くことなく固まってしまった。
その直後、不気味な獣の遠吠えが森の中へと響き渡った。




