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街の中央を流れる急流とは対照的に、そこで暮らす人々の間には穏やかな時間が流れている。正面に雄大な白老山を望む大通りには、観光客向けの宿が何軒も建ち並んでいた。
とある宿屋の二階。小さなベッドが四つ並んだ広めの一室で、三人が机を囲みながらやつれた顔を突き合わせていた。
「さて………………」
ヘクターが言う。
「昔、そんな名前の金持ちは確かに居て、森の中に屋敷があったような気がする、と。得られた情報はこれだけか……………………」
リリアとタケルは黙り込んだまま、ため息を吐いた。
中央都を出て、行路隊の馬車を乗り継ぎ、ガタガタと揺られること二日間。浅い睡眠を何度か繰り返しただけで、宿には一度も寄っていない。街へ着くなり、戦争屋がいると思われる「サルフェンス家」の館の場所について聞き込みを行ったのだが、なにしろ数十年前に潰れた家であるせいか、ほとんど情報を得られなかったのだ。
「とりあえず、今日は休んだ方がいい。全員疲れてるだろ」
先にベッドで横になっていたアクレスが青い顔で言った。ただでさえ瀕死に近い彼だったが、「守ってやる約束を果たせなかったから」と他の反対を押し切る形で同行してきていた。
リリアは不満げな顔で首を振る。
「でも…………」
「一秒でも早く行きたい気持ちは分かるが、そんな状態で行ったところで返り討ちにされるのがオチだ。休めむべき時に休め」
「……………………」
反論の余地もない。ヘクターとタケルは疲れた様子で息を吐いて席を立つと、各々の荷物をほどき始めた。リリアは一人座ったまま、窓の向こうに聳え立つ白老山を眺めた。
◇◇◇
零れ落ちそうなほどの星空の下、リリアは小さなランタンを手に一人で街を歩いていた。時折、路地裏につぶれた酔っ払いがいるくらいで、街は夜にもかかわらず平和だった。
街を流れる川も穏やかに見える。昨晩の雨は昼の間に流れてしまったらしい。堤防に沿って歩きながら見上げた月には、うっすらと雲がかかっていた。
「お嬢さん、隣いいかしら」
河川敷に腰掛けていると、背後から女性に声をかけられた。振り返ると、頭にバンダナを巻いた二十代くらいの女性が立っていた。その後ろには花が積まれた荷車が見える。おそらく花屋なのだろう。
リリアが「どうぞ」と答えると、荷台から一輪の花を抜き取って、隣に腰掛ける。
「月の綺麗な夜なのに、浮かない顔してるわね。悩み事かしら?」
「まぁ………………」
「当ててあげようか」
「え、えぇ……」
「ずばり、恋の悩みでしょ?」
「ち、違います!」
リリアは顔を逸らして黄色の耳飾りを撫でる。その女性は少し笑うと、手に持っていた花をリリアの目の前に差し出した。
白く透き通った花びらを五つ持った、小さな美しい花だった。
「この子は『氷晶花』っていうの。花言葉って、聞いたことあるでしょう? この子の花言葉は何だと思う?」
「は、花言葉? えっと………………、透き通ってるから『純粋』とか?」
「惜しい! 正解はね、『永遠の愛』よ」
「惜しくないじゃん」
「異性への贈り物にもピッタリ! 今ならお安くしとくわよ」
リリアは首を横に振って、氷晶花を持つ彼女の手を退けた。
「それが目的ね。悪いけど、持ち合わせないから」
「あは、冗談よ。これはとっておきなさい。お代は要らないわ」
彼女はリリアの胸のポケットに氷晶花を差し込んだ。リリアは仕方なさそうな顔で花を手に取ると、不思議そうにその花びらを見つめた。
氷晶花。まるで氷から削り出したかのような透き通った花びらの中を、髪の毛よりも細い花脈が走っている。この世のものとは思えない美しさに、リリアは思わず指先で花を撫でた。
「あれ、固い」
「そうなのよ。不思議でしょ? 氷晶花は氷のような、水晶のような固い花びらを付けるの。割れなければ、茎が枯れた後でも花びらはずっと残り続けるのよ」
「だから『永遠の愛』ってこと?」
「その通り。ただね、この子を咲かせてあげるのって、すっごい大変なのよ。それこそ愛情を長い間注ぎ続けて………………、って、まぁその話は良いのよ」
彼女は右手を差し出す。
「私はフローラ。見ての通り花屋をしているの。あなたは?」
「アタシは…………リリア」
偽名を使おうかとも一瞬悩んだが、フローラの突き抜けた明るさがシスティアと重なって、つい本名が口を出ていた。
「リリアちゃん、何に悩んでるの? お姉さんに相談してみなさい」
「悩みっていうか………………」
館の場所を尋ねようとしたリリアだったが、手に持った氷晶花を見て黙り込む。フローラを見ると、彼女は優しく微笑みながらリリアを見つめていた。
これまで、悩みを誰かに打ち明けたことはない。システィアにもだ。悩みを相談する、つまりは弱みを見せることを、どこかで怖れていたのかもしれない。親しくなってからも、むしろ親しいからこそ話せなかったのだ。
ただ、フローラとは今後会うことはないだろう。彼女の人懐っこい性格も相まって、リリアは小さな声で話し始めた。
「アタシは最近、絶対に失いたくない大事な人が何人かできたんだ。アタシなんかを助けてくれる優しい人たちで…………。でも、みんなアタシを置いて突っ走って行っちゃうんだ…………! それで、アタシの傍から誰もいなくなっちゃう………………。もう、どうすれば良いのか…………」
リリアの喉から嗚咽が漏れた。言葉にしたことで、密かに感じていた孤独が顕在化し、無意識に押し殺していた寂しさが涙として止めどなく溢れ出ていた。
フローラはリリアの丸まった背中を優しく撫でる。そして少しの沈黙を挟んで、彼女は静かに語り始めた。
「昔、家の近くに綺麗な花を見つけたの。当時の私…………、ちょうど今のリリアちゃんくらいね。私は、そのお花を見ていたくて、そっと摘んで肌見放さず持ってたのよ。でも、一日も保たずに萎れちゃったわ。当然よね、花瓶にも生けなかったんだから」
全く関係のない話に思えたが、リリアは黙ってフローラの話に耳を傾ける。彼女は優しく、子供に絵本を読み聞かせるようにゆっくりと続きを語った。
「別の日、また綺麗な花を見つけてね。摘むと萎れちゃうから、今度は私がお花の側から離れなかったの。雨の日も、お花が雨で濡れないようにって自分の傘差してあげたりしてさ。でも、その次の日から酷い熱病に罹っちゃって、三日くらい生死の境を彷徨ったわ。
お互いが綺麗に健やかでいるためには、一定の距離が必要なのよ」
フローラは続ける。
「大事なのは分かるけど、無理をしてでも相手に合わせていたら、いつかは潰れちゃうわ。周りに取り残されると不安になるかもしれないけど、一番大事なのは自分が自分でいること。リリアちゃんに何があったのかは分からないけど、もう少し自分を大事にしてあげたら良いんじゃないかしら」
彼女は手を伸ばして、リリアの頬を指で拭った。涙の下には濃いクマができていた。
「でも………………」
リリアは両手で頬を拭う。
「自分のことなんて考えてる余裕ないよ。そんなことしてたら…………」
「あら、リリアちゃんの大事な人たちって、泣いている女の子を黙って置いていくような人たちなの?」
尋ねられて、リリアは首を横に振った。フローラは微笑みながら、彼女の頭を撫でる。
「それなら心配いらないわね。もし、どうしても一人が辛くなったら私の家に来なさい。街を出て、しばらく道を行くと花畑が見えるわ。そこが私のお店だから」
彼女が指さした方角に目をやると、月に照らされた白老山が見えた。その拍子に山から吹き下ろした涼やかな風がリリアの涙を吹き飛ばしてしまった。
◇◇◇
森に遠吠えが木霊する。ただ、それは人の唸り声が混ざったような不気味な声で、森の外まで響くことは無かった。鴉は一人、森の高い木の上で荒い呼吸を整えると、無造作に添木が巻きつけられた左腕を見た。
「ハハ………………。化け物屋敷かよ」
そう笑って目を細めると、森の奥で大きな影が揺れた。
完全に想定外だった。戦争屋の傍に立っていた、エナスとかいう男の戦闘力もそうだが、この森に巣食う化け物のことは知らなかった。
魔獣であれば、こちらが手負いであっても遅れをとることは無い。が、あれは確かに魔獣ではなかった。
「ったく、クソみてぇな人生だよなぁ…………」
思い返せば何も良いことが無い人生だった。貧困街に生まれ、親の顔を覚える前にナイフの扱いを覚えた。肉を裂く感触も、血や内臓の臭いも十歳になる頃には慣れてしまっていた。殺しで稼ぐようになってからは、年を重ねるごとに地下街の奥へと居を移していった。まるで地の底へと落ちていくように…………。
そこで、鴉は小さく笑みをこぼした。
死を考えると、どうしても彼女の顔が頭に浮かぶ。
目頭を押さえると、掻き消えそうな声で呟いた。
「最期に会いてぇなぁ…………。リリア」




