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 換気していないせいか、部屋の空気が重い。はめ殺しの窓の外からは、静かな雨音が聞こえてきていた。サミュエルとの会話から、既に二日が経過していた。

 あれから『精霊』というのも現れなくなった。何か条件があるのかもしれないが、思い当たるフシは何もない。


 硬いベッドに寝ていると、不意に鉄の扉が音を立てて開いた。立っていたのは、食事の乗った盆を持つエナスである。


「今日の飯は?」


 話しかけるが返答はない。これはいつものことだ。彼は銀の盆を小さなテーブルの上に置くと、そのまま無言で立ち去っていった。

 彰の監視役は彼だ。扉の小窓から廊下を覗くと、いつも仁王立ちする彼の姿が見えた。日中はもちろん、夜中でさえもだ。便所にまでついて来るので、逃げ出せるような隙は全く無い。


 スープに固いパンを浸しながら、窓に付いた水滴をぼんやりと眺める。

 逃げ出すとすれば、「方舟」への移送だろうか。いや、当然エナスもついてくるはずだ。逃げ出す隙は与えてくれそうにない。


「あーぁ…………。アイツ、助けに来ようとするかなぁ……………………」


 アイツ、とは、リリアのことだ。

 仮に助けに来たとして、エナスを何とかしなければならない。アクレスならば時間は稼げるかもしれないが、勝てるかと言われると確信を持てなかった。


 彰は一つため息を吐く。

 窓の外では、相変わらず雨が続いている。一階にあるこの部屋からは森の木々しか見えない。雨に打たれる枝葉は、彰を手招きするように揺れていた。


 エナスさえ倒せば逃げられるのか?


 彰はふと思い立つ。

 サミュエルは、「方舟」で過去の知識と技術を得ているはず。それにも拘わらず、自身の手駒がエナスだけ、ということがあるだろうか。


 脳裏によぎった不安を、ため息と一緒に吐き出した。分かりもしないことを考えたところで仕方がない。シワの寄った眉間を指で伸ばすと、彰は顔を上げる。

 その拍子に視界に入ってしまった。


 窓の外、揺れる木々の隙間から覗く緑色の瞳。三メートルはあろうかという巨大な獣が、静かに彰の姿を見つめていたのだ。


「………………え」


 絶句する彰。その姿を確認しようと立ち上がりかけた直後、地響きのような大きな揺れが部屋を襲った。

 思わず倒れ込んだ彰は、慌てて視線を窓の外へ戻す。しかし、その獣はとうに姿を消していた。


◇◇◇


 彰が食事に手を付ける少し前。館の一階、古びた実験室に一人の男が訪れていた。

 薬品の調合をしていたサミュエルは、その男が咥えていた葉巻を見て眉をひそめる。


「ここは禁煙だ、鴉」

「固てぇこと言うなよ」


 笑いながら言うと、帽子のつばからプカプカと煙を溢す。


「何やってんだ?」

「鎮静剤の調合だ。四番目の子の容態が安定しなくてね。連れて行く予定だったんだが、あの状態ではとても移動させられない」

「ほう。よく分からねぇが、科学者ごっこもサマになってきたじゃねぇか」


 サミュエルは手を止めて睨みつけるが、鴉は意にも介さず小さな棚の上に腰掛けた。帽子から垂れた水滴が床に小さな水溜りを作る。

 サミュエルは小さく「雨か」と呟くと、銀に煙る中庭を見下ろした。


 数年前、館の中庭は壊れた花壇と雑草だらけの道しかなかったはずだった。ところが、今は鮮やかな花々が雨の中で揺れ、煉瓦の道も整備されている。


「庭師でも雇ったのか?」


 尋ねると、サミュエルは首を横に振った。


「エナスの趣味だ。誰に教わったんだか」

「へぇ。悪くねぇな」

「何をしに来た。庭を見に来た訳じゃないだろう」

「あぁ、少し確認にな」


 鴉は白い煙を吐き出すと、葉巻きの火を棚で揉み消した。サミュエルの綺麗好きは鴉も知っている。その見え透いた挑発を見て、サミュエルは手元に置いてあったベルを鳴らした。

 鴉は構わずに続ける。


「この前、里帰りしたんだ。こっから東にある、デカい貧困街だ。久々に行ったら、かなり変わっててなぁ。何って、病人が減ったのさ」

「何が言いたい。要点を話せ」

「まぁ焦るなよ……………………。でなぁ、話によると医者が来たらしいんだ。そいつが無料で診て回ってるんだとよ」


 話の途中で実験室の扉が開いた。部屋へ入ってきたエナスは、鴉の姿を見て拳を固める。


「その医者は『ヨハン』って奴なんだ。アンタ、知ってるだろ?」


 その言葉で、サミュエルは片手を挙げてエナスを制止した。鴉は続ける。


「そいつから聞いたぜ。アンタの…………、いや、アンタ()の事を色々とな。聞けば、アンタら、『方舟』とやらの技術を使って人類滅亡を企んでるそうじゃないか。そら本当か?」


 しばらく沈黙が続いた。葉に打ち付ける雨音だけが部屋に響いていた。


「その男の…………、ヨハンの言っていることは概ね正しい」


 サミュエルは静かに言った。鴉は「ほう」と棚から立ち上がる。


「私には協力者がいて、彼の目的が人類の絶滅であるのは確かだ。ただ、あくまで利害が一致しているだけの協力者であって、私は人類の絶滅など考えていない」

「じゃあ、アンタの目的は何だ。世界征服でもするつもりか?」

「いや、私が望むのは『進化』だよ。

 急速に発展する文明に対して、人類という種は全く進化が無い。変わらず足を引っ張り合い、優秀な者は愚鈍な人民によって引きずり降ろされる。そんな光景は幾度も見たし、私も経験した。高度化した社会は、それに見合った『新人類』を必要としているのだ」

「アンタが俺たちを『新人類』ってのにしてくれるってのか。そいつはありがてぇ話だな」


 鴉が皮肉っぽく言うと、サミュエルは不気味に笑った。


「そうではない。君も聞いただろうが、方舟というのは、ただ情報を蓄積するだけの装置ではない。あの装置の本質は新たに生命を創造することにある」


 サミュエルは鴉の理解を待つように、少しの間黙り込んだ。


「……………………つまり、アンタは現人類を自分の創った『新人類』ってのに、まるごと置き換えようってことだな?」

「あぁ。私は『人類の絶滅』は考えていないよ。現人類には消えてもらうがね」


 それを聞いて、鴉は懐からナイフを取り出した。それを片手で遊びながら呟く。


「俺が『九頭竜』なんてのをやってたのは、竜の描いた理想に惹かれたからだ。何にも制限されず、支配されず、貴族から物乞いまでが平等に、自身の力で生存を勝ち取る世界。最高だろ?」


 彼は手の甲に彫られた竜の印を見つめて、そのナイフを強く握った。


「他人の力を使って神様ヅラしている奴ぁなぁ、俺は一番嫌いなんだよ」

「エナス。やれ」


 直後、エナスの拳が鴉の居た場所を貫いた。石造りの床だったが、一撃で粉々に砕け散る。

 寸前で躱した鴉の額を冷や汗が流れた。


「おいおい。飼い犬の躾がなってねぇな」

「躾は完璧だよ。これ以上に忠実な番犬はいない」

「なら、躾がなってねぇのは飼い主の方か」


 鴉が不敵に笑うと、彼の懐から青く光るナイフが飛び出した。

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