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扉を開けると、暖かい風が吹き抜けた。疲れた重い足を柔らかい絨毯が音も無く受け止める。堅苦しい礼服の上着を脱いで椅子の背に掛けると、ユーテルは深いため息を吐いた。
「最近、寝ておらんな?」
声のした方を見ると、赤ん坊を抱いたスイコが薄暗い部屋の窓際で朧げな月明かりに照らされていた。少し開いた窓から流れ込んだ風がカーテンを静かに揺らしている。
ユーテルは力なく笑うと、椅子に座って深く項垂れた。
「議事堂が半分焼け、議員が半分消え、各地で暴動が起き………………。九頭龍が貧困層を扇動していたらしい。ユドラーの奴は俺を過労で殺す気だ」
「笑えん冗談じゃな」
スイコが呟くと、その腕の中で二人の子が目を覚ました。その子は泣き声一つ上げることなく、ジッと母親の顔を見つめ続ける。
ユーテルは立ち上がると、スイコの傍まで行って赤ん坊の顔を覗き込んだ。
「賢い子だな。安心して死ねる」
「それも笑えん」
月が雲に隠れ、大きな影が落ちた。スイコは心配そうにユーテルの顔を見上げる。
「愚民政策を取るのはどうじゃ」
「何を言い出すんだ、お前は」
「もっと楽に統治できる術はないのか? いっそのこと夜逃げでもするか」
ユーテルは息子の頭を優しく撫でると、おかしそうに笑った。
「マサカズとの約束はどうした。国を手に入れるんだろう?」
「それは……………………。はぁ」
バツの悪そうな顔で黙り込むスイコに、ユーテルは「手は考えてある」と笑った。
「手とは何じゃ」
不満げな顔でスイコが尋ねる。すると、ユーテルは事も無げに答えた。
「国民に政治を任せようと思う」
「………………なんと無責任な」
「勿論、いきなり全て投げ出すわけじゃないさ。貴族ではない者で構成された議会に、一部の権限を託すんだ」
「上手く行くか?」
ユーテルの言葉を遮ってスイコは言った。
「政治体制が変われば、旧体制の王家は人民の敵じゃ。そうすれば王家は、この子は…………どうなるかは知っているはずじゃ」
彼女の目は、自身の月皇家が辿った末路を訴えていた。敵となり、敗れた王家に待っているのは崩壊と滅亡である。
「大丈夫だ」
ユーテルは落ち着いた口調で続ける。
「あくまで一部の権限だけだ。いずれは増やしていくだろうが…………、まぁ上手くやるよ」
「上手くいかなかったら?」
「まぁ……………………、そのときは三人で夜逃げだな」
「………………それも悪くないな」
二人はどちらともなく笑った。雲を抜けた月が、窓辺の三人を柔らかな光で照らしだす。
風に揺れる木々の音を遠くに聞きながら、ユーテルは呟いた。
「それにしても、こんな時間まで起きているとは珍しいな。何かあったか?」
まもなく日を跨ぐ時刻だ。普段であれば、スイコは息子と寝室で寝息を立てているはずである。
彼女は静かに答えた。
「一つ、聞きたいことがあってな」
「なんだ?」
「戦争屋、という男を知っておるな? 五年前、この国は彼と関わりがあったはずじゃ」
その言葉を聞いたユーテルは、小さく「あぁ。あったな」と答える。
「本名は確か、サミュエル・サルフェンスだったか。武器商売の仲介人をしている男だ。親父が戦時中に兵器を買い込んでたはずだ。ただ、五年前の戦争以降、彼の名前は聞かないな」
「システィアが入院する原因となったのは、その男の部下じゃ」
「……………………なんだと?」
スイコは続ける。
「システィアは、ここから東方にある放棄された研究施設で、エナスと呼ばれる男との戦闘になったらしい。その末に重症を負い、今は中央病院で入院しておる」
「東方の……………………特殊鳥獣研究所か?」
「確か、そんな名前じゃ。知っておるのか?」
ユーテルは躊躇いがちに頷いた。
「動物の兵器利用を目的とした、極秘の研究施設だ。人体実験に手を出して解体させられたが………………」
そこで一度言葉を切ると、苦い顔で続けた。
「サミュエルは、その施設の所長だった男だ」
◇◇◇
六畳ほどの部屋だった。小さな机と椅子が一つずつ、壁際にはベッドが置かれている。どれも古いが綺麗に掃除されていた。
彰が目を覚ましたのは、そのベッドの上だった。起き上がろうとするだけで腹に鈍痛が走る。
シミの付いた天井を見つめながら、混濁した記憶が時間とともに整理していく。彰の脳裏にシスティアの姿が浮かんだ。
「………………システィ!」
小さく叫ぶと、痛む身体を無理やり起こした。そのまま崩れ落ちるように床へ転がると、フラフラとした足取りで立ち上がる。
分厚い磨りガラスが張られた部屋の窓には、鉄格子が嵌め込まれている。月明かりが縞模様の影を落としていた。唯一の扉は鉄製で、ノブを回してもビクともしなかった。
彰は力任せに扉を叩くと、その場にうずくまった。
「システィ…………」
あの場で地下へ向かわず、システィアと共闘していたら。上階で物音がしたときに、システィアを援護に行っていたら。あるいは、初めから自身を差し出して、全員を逃がしていたら。
何が最善だったのだろうか。
少なくとも、自分の取った行動が最善では無かったのは確かだ。
気を失う直前の、エナスの目が瞼に蘇る。
力の差は圧倒的だった。いくらか戦えるようになったと思っていたが、そんな自信を嘲笑うように、現実は彰を容赦なく打ちのめす。
今の彰は、まともに戦うことはもちろん、誰かを助けられるような実力すらないのだ。
『悩んでいるナ?』
不意に声が聞こえた。理解できる言語ではあったが、どこか不自然で人の声ではない。
声のした方を振り返った彰は、目の前にいた存在に言葉を失った。
『戸惑っているナ?』
それは、両生類のようなツヤツヤとした肌をした、六本脚のトカゲだった。ビー玉のような丸い瞳で彰を見つめながら、身体の三分の一ほどを占める大きな頭を傾げる。
『力を、欲しているナ?』
「ち、力……………………」
『圧倒的な、驚異的な、超人的な、力を、欲しているナ?』
言語は理解できても、頭がそれを処理できない。まだ夢でも見ているのかとも思ったが、腹部の痛みが現実であることを訴えている。
眼の前の「それ」はペロリと赤い舌を出す。一瞬だけ見えた舌は、まるで蛇のように細く、先端が二つに割れていた。
『我はヒトが精霊と呼ぶモノ。水を司るモノ』
精霊、と「それ」は語った。
『我と、契約セヨ。契約し、力を求めヨ』
「契約…………?」
『さすれば、万物を押し流し、飲み込み、無に帰す、水の力をくれてやル』
契約。その言葉が、月島へ向かう途中にアクレスがしていた話を思い出させた。
――――ただ俺の場合は、精霊と直接契約してるから、………………まぁ、俺自体が魔法ってことだ。分かるだろ?
「いや、分かるわけねぇだろ…………」
思わず彰は呟く。
精霊が存在するとは思えなかったが、今目の前にいるのは明らかに普通の生き物ではない。幽霊でも見ているかのような、この世のものではない異質さがあった。
おそらく、アクレスは今の彰のように炎の精霊と出会い、契約したのだろう。そして、炎を操る能力を得たのだ。
彰も精霊と契約すれば、彼ほどの力が手に入るのだろうか。
「契約…………、ってことは俺は何を差し出すんだ?」
彰が尋ねると、精霊と名乗った存在は不気味に口角を上げた。
『生命力ヲ! あるいは魂! あるいは魔力! 呼び名は違えど、指すものは同じダ! 生命を生命たらしめるソレを差し出セ!』
「え………………」
彰は少し後ずさる。
「魂って……、まるで…………」
『契約するカ? しないのカ?』
返答に迷っていると、足音が聞こえた。彰は背後を振り返る。足音は扉の向こうからだ。
「悪い、精霊。契約の話はまた今度…………、あれ?」
再び振り返ると、そこにいたはずの精霊は消え、古びた床の上に小さな水溜りだけが残っていた。
不思議に思いながら水溜りを見つめていると、足音が扉の前でピタリと止まった。まもなく、無遠慮なノックがやかましく響き渡る。
「元気かな?」
聞こえてきたのは、中央都で通信機越しに聞こえた声と同じだった。
「私はサミュエル。戦争屋、と言えば分かるかね」
「戦争屋………………!」
彰が身構えると、鉄製の扉は悲鳴に似た音を立てながら重々しく開いた。
扉を開けたエナスの後ろで、白髪頭の老人が片手を挙げる。
「やぁ、アキラ君。君と会えて嬉しいよ」
老人はそう言うと、嬉しそうにニンマリと笑った。




