52
懐かしい匂いで目が覚めた。
いつもの調子で起き上がろうとするが、全く体が動かない。それだけで少し息が上がっている自分に気が付いて、思わず笑ってしまった。
「起きた?」
聞き慣れた声が聞こえた。
「……………………そふぃあ」
「水飲みな、アクレス」
眠たげなソフィアは水差しを取ると、アクレスの口に直接注ぎ込んだ。あまりに遠慮のない注ぎ方に、アクレスは口から水を吹き出す。
「ブゴッホ……! ゴホッ…………! ゴホッ! お前、殺す気か!」
「おぉっと。ごめん、ごめん」
軽く笑いながら謝るソフィア。目の下のクマは普段よりも濃く、かなり疲れている様子だったので怒るにも怒れない。アクレスは重い体を起こすと、水差しを受け取って自分で飲んだ。すっかり乾いた喉に、ぬるい水が沁みた。
部屋は五年前と同じ個室だった。
病院のベッドは五年前から変わらず固い。少し変わったところを挙げるなら、カーテンの色が黄ばんだ白茶色から、清潔感のある白色に変わったことくらいか。カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しくて、外の景色は良く見えなかった。
「なんか腹に入れときな。体調は?」
枕もとの棚に置かれた籠からリンゴとナイフを手に取ってソフィアは尋ねた。相変わらずの器用さで、真っ赤に熟れたリンゴは彼女の手の中でクルクルと回りながら赤い皮を落としていく。
アクレスは首をゆっくりと回しながら答えた。
「いつになく体が重いよ。特に腰が岩みたいに重たい」
「あー、分かる。私も最近起きたら腰が痛くてさぁ」
「そら年のせいだな」
「私が刃物を持ってることを忘れんなよ?」
くるりと刃先をアクレスに向ける。
「…………と、いうのは冗談として。無茶しすぎ」
「だろうなぁ」
腕を見ると、真新しい腕輪が着けられていた。腕輪に取り付けられた赤い宝石がは、蝋燭で消えかかった火のようにチラチラとした光を放っている。その光は、消耗したアクレスの命を表しているようにも見えた。
正直なところ、あの場で死んでも構わなかった。むしろ死んでやろうとすら思ったほどだ。今、こうして生きていることが自分でも不思議だった。
ソフィアはアクレスの腕輪にある宝石をちらりと見て口を開く。
「腕輪の構築式だけど、前半の魔力吸収系の構成を少し変えてて、前に着けてたやつよりも伝達効率が」
「待て待て、分からん」
「要は、ちょっとだけ効率良いから体も楽なはず。どう? …………つっても、その体じゃなぁ」
「悪いな」
「いや、私が悪いんだ」
ソフィアはリンゴを剥き終えると、「この部屋、皿もないの?」と言ってそのまま手渡してきた。
「剥く前に気付けよ」
「疲れててさ。色々あったんだ」
「色々?」
アクレスがそう言ってリンゴを齧ると、部屋の扉が音を立てて開いた。その向こうに立っていたのは軍服に身を包んだ大男。彼はアクレスの食べているリンゴを見ると、自分の手にある赤いリンゴを見て「あぁ」と呟く。
アクレスは彼の顔を見るなり、ため息を吐いて肩を落とした。
「ルシウス。お前、なんで中央都にいるんだ」
男の名はルシウス。不定期で髭を剃るせいで中途半端な無精髭が生えており、髪の毛も「面倒くさい」と切らずに伸ばして後ろで結んでいる。ズボラという言葉をそのまま人にしたような彼だが、本人曰く月島の名家の生まれらしい。
彼は頭をボリボリと掻くと、ぶっきらぼうに答えた。
「仕事じゃ。文句なら軍に言え」
ルシウスはアクレスと陸軍の同期。訓練兵時代から苦楽を共にしてきた仲である。
彼は手に持っていたリンゴを「北島土産じゃ」と言って棚に置かれた籠へ突っ込んだ。
「今は北島勤務だっけ?」
ソフィアが尋ねると、ルシウスは「うむ」と頷く。
「あそこは寒いのぉ。夏は良いが、冬はもぉ~やってられん!」
「まだ寒いのか」
「おう。移動も寒くて寒くて………………。そうじゃ、アクレス。ワシが帰るとき、一緒に北島に来い」
「俺は歩く暖炉か」
ルシウスは豪快に笑うと、「あ」と呟いて手を叩いた。
「アクレスよ。体調は大丈夫か?」
「今更かよ」
「また派手に暴れおって…………」
彼はそう呟くと、悲しそうな顔でアクレスの背中を見下ろす。そして、何か気付いて眉間にシワを寄せた。
「アクレス。お前、死に場を探しておるな?」
その言葉に、アクレスのリンゴを食べる手が止まった。ソフィアは「え?」と気の抜けた声を上げる。病室を静寂が包んだ。
アクレスは食べかけていたリンゴを飲み込むと、小さく呟いた。
「………………まだ早いか?」
「早いわ、阿呆。損得抜きにお前を想う人間が居ることを忘れるな」
飾り気のない真っ直ぐな言葉にアクレスは笑った。彼らは、アクレスを「英雄」でも「軍事力」でもない、ただの「アクレス」として見てくれている。それが嬉しかった。
アクレスは少し顔を上げた。
「そんなら、もうちょい生きてみるかな」
「弱気じゃなぁ、らしくない。昔のお前なら、もっとガツンとしとったぞ。こう、豪快に………………」
「ルシウース!! どこだ!」
廊下でハッキリとした女性の声が響いた。すぐに看護師の「お静かに!」という声も聞こえてくる。ルシウスはバツの悪そうな顔をすると、「うるさいのが来た」と部屋の入口を見た。
やがて、その引き戸が開かれると、長い金髪を後ろに束ねた背の高い女性が現れた。ルシウスと同様に軍服を着た彼女は、鋭い目で部屋を見まわし、ルシウスの髭面に指を立てる。
「あんた! お手洗いがずいぶん長いと思ったら! 会議抜け出して何してんだい!」
「見舞いじゃ。友人の」
「見舞い? 誰の……………………」
そこでようやく彼女はアクレスとソフィアに気付いたようだ。すぐに顔を綻ばせると、寝不足でフラフラしているソフィアの両手を取る。
「なんだい、ソフィじゃないか! 相変わらず寝てないな?」
「まぁね」
「そうだ、アクレス。聞いたよ、あんたも災難だったね」
優しく笑いかける彼女の名前はビオラ。彼女もまたアクレスと同期であり、五年前からはルシウスと共に北島駐屯地に勤務している。見た目通りの几帳面さと物怖じしない性格で、いつもルシウスを尻に敷いているという噂だ。
ビオラはルシウスの大きな背中を叩くと、彼の腕を強く引いた。
「うるさくして悪かったね。ほらあんた、行くよ」
「アクレス、元気になったら北島に遊びに来い。北島は自然が多くてええぞ」
二人は口々に「お大事に」と言い残すと、アクレスの病室を後にした。再び病院らしい静けさが訪れる。
アクレスは一口リンゴを齧った。
「…………相変わらず嵐のような夫婦だな」
「うぅ……………………。頭に響いてクラクラする」
ソフィアは小さく呻きながらベッドに突っ伏した。
気付けば窓の外の太陽は高く昇っており、遠くの人々の喧騒が微かに聞こえてきていた。郊外の高台にある病院からは、半分以上が黒く焼け落ちた議事堂が見える。
ユドラーを剣で貫いたところまでは覚えている。彼はその後どうなったのだろうか。彼がもたらした損害は計り知れない。
「そういえば」
アクレスは膝元で寝ようとしているソフィアに尋ねた。
「アキラはどうしたんだ? あいつ帰ってきたか?」
「……………………」
「……寝たか」
「………………………………帰ってないよ、アキラ君」
ソフィアは顔を上げずに答えた。
「そうか、まだ帰ってないか」
「システィは、今ここで入院してる」
「そうか。……………………何? システィアが入院?」
聞き間違いではない。ソフィアはベッドに突っ伏したまま続けた。
「帰ってきて二日経ってるけど、まだ目を覚ましてない」
◇◇◇
リリアは白いベッドで寝息を立てているシスティアの手を優しく握る。ひんやりとした彼女の手は、握り返すことも、動くこともなかった。少し開けた窓から流れ込んだ風が、リリアの腫れた目を撫でていった。
「ねぇ…………。起きてよ」
声をかけるが、返ってくるのは規則的な呼吸音だけだった。
しんと静まり返った病室。扉の向こうから微かに聞こえる人々の声が、より孤独を意識させた。
どれだけの間そうしていただろうか。もう何日も食べていない。力は出ないが、腹は減らなかった。
不意に、部屋の扉が叩かれた。振り返ろうとするよりも早く引き戸が開かれる。
「おや? 先客か」
入口に立っていたのは、後ろに何人かを従えた、見るからに高貴な女性だった。廊下が何やら騒がしいのは、おそらく彼女のせいだろう。
その女性は気取った様子もなくリリアの隣に立つと、眠るシスティアの額を優しく撫でた。
「ワラワの名はスイコ。ヌシの名は何じゃ」
不思議な話し方をする女性だった。リリアは少し戸惑いながら自分の名前を告げる。
スイコと名乗る女性は、静かに語り始めた。
「システィアは昔からの親友で、ワラワにとって妹のようなものじゃ。それはもう、お転婆という言葉が似合う少女でな。小さいころから可愛いやつじゃった」
リリアが黙っていると、スイコはその頭を優しく撫でた。会うのは初めてなのだが、隣にいるだけで不思議と心が落ち着いた。システィアとは違った、母親のような優しさがあった。
彼女はリリアの頬にできた涙の跡をそっと拭うと、自ら膝を折って目線を合わせた。
「リリア。話せるだけでよい。何があったのか教えてくれぬか?」




