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換気されていないせいで地下室の空気は重く、やけに獣臭かった。暗い廊下を、懐中灯の薄い灯りだけを頼りに進んでいく。廊下の両脇には錆びついた鉄の檻が並んでおり、その様はまるで地下牢のようだった。
少し進むと、彰の肩の上でタケルがうめき声を上げた。
「いってぇ………………」
「お、起きたか」
「うぅ…………」
タケルの体を床に下ろすと、彼は思わず顔を歪めた。
「…………巻いてくれたのか」
「まぁ、やり方は自己流だけど」
「いや十分だ。ありがとう」
彼の骨折した腕には、落ちていた木片を彰の服から破った布で巻き付けてある。だが脱臼した左肩は治す術が分からず、抜けたままになっていた。
彼はだらりと腕の力を抜くと、その姿勢のまま左腕を軽く引っ張った。
「入った」
「え? 今ので?」
「あぁ……。癖になってんだ、肩抜けるの」
タケルは肩を回そうとして痛みに顔をしかめる。そして、思い出したように辺りを見回すと、「牢か?」と尋ねた。
「さぁ。牢屋は牢屋でも、たぶん人を入れるものじゃないと思う」
彰は、表の看板にあった「鳥獣研究所」の名前を思い出して答えた。おそらく研究対象だった動物を入れておく場所だったのだろう。そうであれば、獣臭いのにも納得がいく。
すると、懐中灯を握りしめたリリアが彰の服を強く引っ張った。
「は、早く行こうよ」
「あぁ、もちろん…………、なんか顔色悪くない? 大丈夫か?」
「だ、だい大丈夫。別に……、なんともない」
リリアの声は震え、顔色はどこか青白かった。全く大丈夫とは思えない。
その時、廊下の奥から「ガタン」と何かが倒れたような音がした。
「キャァーー!」
甲高い悲鳴を上げて、体を丸めるリリア。
彰はその様子を呆れた表情で見ながら言った。
「地下街で暮らしてた奴が、こんな程度で驚くなよ」
「だ、だっ、だって! 幽霊って殺せないじゃん!」
「まぁ……………………、そら死んでるからな」
確かに薄暗いジメジメした地下室は気味が悪い。が、今は怖がっている余裕などないのだ。
「上でシスティが戦ってるんだ。さっさと見つけて逃げるぞ」
それを聞いたタケルは「待て。戦ってる?」と顔を上げる。
「そうだ。エナスはどうしたんだ」
「だから、システィが時間稼いでくれてるから」
「それを早く言え!」
タケルはすぐ銃を抜いて走りだそうとする。彰は慌ててそれを止めた。
「お、おい! どこ行くんだとは!」
「加勢だ! 二人はさっさと逃げろ!」
「な、なに言ってんだよ! 俺たちはエリさんを助けに………………」
言いかけた直後だった。三人の頭上から、何かが爆発したような音が響いた。その衝撃は地下室全体を揺らすほどで、天井からはパラパラと砂埃が落ちる。何が起こったのかは分からないが、誰がやったのかは明らかだ。
タケルは二人の顔を見ると、静かに言い聞かせるように言った。
「助けよう、なんて考えは捨てろ。逃げることが第一だ」
彼は銃口で天井を指さす。すると、それに応えるかのように上階から大きな音が響いた。
「あれを同じ人間と思うな。俺が先頭で一階へ行く。逃げるだけの時間は稼ぐから、その間に走れ。いいな?」
「ま、待てよ……。それって、どういう」
「あれと正面からやり合える奴はいない! 今すぐ一階へ行って、俺を壁にして逃げろ!」
鬼のような剣幕だった。口答えでもしようものなら、撃ち殺してやると言わんばかりの勢いだ。
しかし。
「…………できない」
彰は剣の柄を握りしめると、はっきりと言い切った。
「何言ってんだ!」
「俺はエリさんを探す」
リリアもタケルの握りしめた銃を静かに下ろさせる。
「システィが時間を稼ぐって言ったの。だから、アタシたちはエリさんを探す」
上階からは尚も激しい音が続いていた。システィアは負けていない。
確かにエナスは化け物じみた強さだったが、システィアはそれを承知で「時間を稼ぐ」と言ったのだ。ここで逃げ帰ってしまっては、全てが無駄になってしまう。
その時、廊下の向こうから「ガン」と鉄格子を蹴る音がした。続いて、くぐもったような小さな声が聞こえる。タケルは二人の顔を交互に見ると、一言「さっさと行くぞ」と言って廊下を走りだした。
廊下の先。最奥の牢の中には、椅子に縛られた女性が鉄格子の傍で横たわっていた。その小柄な人影は、間違いなくエリだった。
牢の扉を開けようとするが、その扉には真新しい錠がかけられていた。戦争屋が付けたものだろう。
「どけ!」
タケルは片手で拳銃を構えると、牢の扉に掛かっていた錠を撃ち抜く。彰は錆びついた扉をはね開けると、すぐにエリに駆け寄った。猿ぐつわを外し、椅子に縛り付けていた縄を剣で切る。
「エリさん、大丈夫?」
目立った外傷は無いが、捕らえられていた環境が悪かったのか、以前会ったときよりもやつれて見えた。彼女は二、三咳き込むと、掠れた声で答える。
「ありがとう、二人とも……………ん? 誰?」
「自己紹介は後だ」
タケルは銃を脇に挟んで器用に装填すると、天井を見上げて苦い顔で言った。
「さっきから音が止んでる」
◇◇◇
一階へ戻ると、そこは薄気味悪い静寂に包まれていた。舞い上がった埃のせいで、視界は靄がかかったように悪い。奥では、チラチラと赤い炎が揺れているのが見えた。
その中に浮かんだ大きな人影。その場にいた全員が一目でエナスだと分かった。
「全員逃げろ!」
タケルは叫ぶなり銃を構える。しかし、彼はエナスの左手を見ると、引き金を引く指を止めた。
エナスがゆっくりと振り返る。炎に照らされた灰色の瞳が彰の姿を捉えると、彼は少し目を細めた。
「シス…………ティ」
リリアが呟いた。
エナスの左手。彼の巨大な手が握っていたのはシスティアの頭だった。右腕の無い彼女の体は力なく項垂れ、エナスが動く度にずるずると瓦礫の上を引きずられている。
もうピクリとも動いていなかった。
それを見た瞬間、彰は全身の皮膚が泡立つような激しい感情に襲われた。
心のどこかにあった、あるいはシスティアなら、という楽観的な思考が粉々に砕け散った。
怒りか、悲しみか、後悔か。言語化はおろか、その輪郭すら掴むことのできない感情が、一瞬の間に脳内を支配する。あらゆる思考が停止した。
気付いた時には、彰は剣を抜いて地面を蹴っていた。誰かの叫ぶ制止の声すら耳に入らず、一直線にエナスへと襲いかかる。エナスは掴んでいたシスティアを離すと、冷静に拳を構えた。
相手はシスティアよりも強い相手。だが、そんなことはどうでもいい。彰は剣を深く構え、喉元をめがけて突き出した。
「――――――あ」
ところが、次の瞬間。彰の剣は後方へと消えた。突き出した剣を側面から叩いて弾き飛ばされたのだ。
彰を見下ろすエナスの顔からは、もう笑みは消えていた。彰を見つめていたのは、まるで機械仕掛けのような冷たい目。
エナスの身体に描かれた構築式が赤黒く光った。
避けなければ。そう考えた直後、彰の腹部に強烈な拳がねじ込まれた。避ける間も、声を上げる間もなく、彰の意識は闇に落ちる。
「馬鹿野郎っ!」
タケルはエナスに銃口を向けるが、片手では照準が定まらない。このまま撃っては彰やシスティアにも当たる可能性がある。
エナスの手が彰へ伸びた。その光景は五年前に見た光景と重なる。耳の奥で響くのは、撃てないタケルを嘲笑う男の声。
タケルは握っていた拳銃を捨てると、腰に下げていた細い鎖を手にした。鋭く投げつけられた鎖はエナスの首に巻き付く。
「逃さねぇぞ! エナス!」
強く鎖を引くが、エナスの体は岩のように動かない。しかし、彼は彰に伸ばした手を止めると、タケルの方を振り返って、まるで挑発するように笑った。
彰を守るためには、やはり奴を倒さなければならない。
「クソッ――――!」
タケルは走り出した。細いチェーンを腕で巻取り、空いた手で捨てた拳銃を拾い上げる。外すことが恐いなら、外さない距離まで近づけば良い。エナスはそれに応えるように拳を構えた。
彼の身体に弾丸が通用しないことは五年前に経験済みだ。硬化できない頭部を狙い、引き金を引く。
ただ、その狙いはエナスも分かっていた。瞬時に体勢を落とし、放たれた弾丸を躱す。
タケルが二発目を撃つ前に、エナスは地を蹴った。
少ない予備動作から放たれる、大砲のような右の拳。タケルは素早く上体を反らして避け、銃を握った右手だけを目の前のエナスに向ける。
再び響く銃声。
しかし、エナスは素早く身体を捻って躱すと、その勢いを利用してタケルを蹴り飛ばした。
「この…………化け物が……………………」
瓦礫の上で唸るように呟くタケルを見下ろしながら、エナスは鼻から垂れた血を拭う。そして、尻のポケットからボロボロの紙を二、三枚取り出して、それを彼の後ろで固まるリリアとエリに見せた。
そこに描かれていたのは、非常に写実的な風景画。
「写真…………」
エリが言うと、エナスはゆっくりと口を開いた。
「ア……ク……レ……ス………………?」
口の動きを見てエリが尋ねると、エナスは静かに頷いて手に持っていた写真を落とす。それが「アクレスを連れてこい」という意味であることは、言葉は無くとも理解できた。
エナスは小さく咳き込むと、転がっている彰の身体を担ぎ上げた。
「あ………………待って…………」
リリアは思わず手を伸ばす。
「お願い……やめて……………………連れて行かないで…………」
震える声で懇願するが、エナスが止まることはない。リリアは滲む視界を手で覆いながら、小さな嗚咽を漏らすしかなかった。




