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何が起こったのか理解するまで数秒を要した。その間、リリアはただ呆然としたまま、男の顔を見つめる他無かった。
逃げるべきだ。
頭では分かっているのだが、リリアの脚はガタガタと震えるだけで、一向に走り出そうとはしない。少しでも動けば、それが死に直結するような気がした。
その男、エナスがリリアの方に向き直った。感情の揺らぎが一切無い真っ直ぐな瞳が、立ちすくむ小柄な少女を見つめる。
その時間は一秒にも満たなかっただろうが、リリアの加速した思考はその時間を何倍にも感じさせた。
「逃げろ! リリア!」
吹き飛んだ扉の向こう、廊下から聞こえた彰の声で時が動き出した。
逃げようとするリリア。その目の前でエナスの拳が大きく振り上げられる。
周囲の音が消え、ピタリと男の動きが止まって見えた。心臓の音だけが耳の奥で鳴り響いている。普段より鮮やかに映る世界の中、リリアは自身に迫る死の輪郭を探るように、眼前の拳を見つめ続けていた。
しかし、不意にリリアの体が強く引っ張られた。耳元を「ボッ」という、おおよそ拳から出たとは思えない音が通り抜けていく。
そのまま扉の外へと放り出されるリリア。
「ここは任せな!」
部屋から聞こえてきた声を聞いて、ようやく何が起こったのかを理解できた。拳が当たる寸前でシスティアが投げ飛ばしたのだ。
彰が「システィ!」と叫んで、剣の柄を握る。しかし、システィアはそれを片手を挙げて制した。
「あんたらでエリさん探して! その間、コイツは足止めしとくから!」
「でも…………」
「エリさんを助けに来たんでしょ! 私を信じて行け!」
目的はあくまでエリの救出である。戦争屋を見つけていない以上、エリの身に何が起こるか分からない。システィアが残り、一刻も早く探索へ移るのが最善だろう。
彰は剣から手を離すと、床に転がっていたタケルの体を起こした。彼の左前腕は半分に折れ曲がり、肩は外れてしまっている。呼びかけても返事はなく、すっかり意識を失ってしまっているようだった。
大の大人が一撃で「これ」だ。システィア一人で大丈夫なのだろうか。
頭に過ぎった不安を振り払うように、彰は「地下から行くぞ」とリリアの背中を叩いた。タケルを担ぐ彰を見ながら、リリアは黙って頷くしかなかった。
◇◇◇
背後から三人の気配が消えると、システィアは静かに息を吐き出した。いくらでも隙はあっただろうが、エナスは立ったまま待っている。
「エリさんはどこ?」
尋ねてみるが返事は無い。代わりに、彼は襟をまくって首元を見せた。システィアは顔をしかめて呟く。
「喋れないってことか」
彼の首にあったのは大きな傷跡。戦闘中に受けた傷か、あるいは何らかの手術痕か。どちらにせよ、話せないのでは情報も引き出せない。
「エリさんはここに居るんだな?」
彼は黙って頷く。それが分かれば十分だ。システィアが剣を構えると、エナスは嬉しそうに笑った。まるで子供が遊び相手を見つけたかのような、酷く無邪気で残酷な笑顔だった。
「気持ち悪…………」
システィアが小さく呟いた直後、エナスが地を蹴った。瞬きする間もなく距離を詰め、弾丸のような拳を放つ。確かに人の拳とは思えない速さだが、システィアに対応できないものではない。
頬を掠める拳を見送りながら剣を振るう。その剣は驚くほどすんなりと、エナスの胸元へ滑り込んだ。彼は避けることはおろか、防御しようとすらしなかったのである。
通常なら勝負が決まる一撃。
しかし、システィアの手に伝わってきたのは、肉を斬る柔らかい感触ではなく、岩に剣を叩きつけたような硬い感触だった。
「な……んだそれ!」
異常を察したシスティアは、エナスの脇をすり抜けて、彼の背後へ転がり込む。顔を上げると、彼は変わらず不気味な笑顔で立っていた。その体からは血の一滴も垂れていない。
腹に鉄板でも仕込んでいるのか。そう思ったシスティアだったが、斬りつけられた服の下から覗いたエナスの体を見て戦慄した。
死人のような白い体の上を埋め尽くすように彫り込まれた、黒い奇妙な模様の羅列。それが仄かな青に輝いたとき、ようやく気がついた。魔法の構築式だ。
エナスが再び地を蹴った。防御を捨てた純粋な特攻。システィアはなんとか攻撃を躱し、露わになった腹部へ刃を振るう。しかし、やはり返ってきたのは硬い感触だ。
見ると、剣を打ち込んだはずの腹部は大理石のように白化して、システィアの攻撃を受け止めていた。どうやら局所的に硬化させる魔法らしい。
システィアは大きく飛び退くと、右眼の眼帯を外した。このまま続けていては剣の方が折れてしまう。時間稼ぎだなんて悠長なことはしていられない。
「さっさと決めさせてもらうよ」
眼帯の下に隠れていた義眼が青に輝く。不思議そうにその光を見ていたエナスだったが、自身の視界が急に歪みだしたのに気付いて、一気に驚愕の表情に変わった。
神速の攻撃に、鉄壁の防御。攻略できないようにも思えるが、一点のみ、まだ可能性のある場所がある。
それは「目」だ。
彼の頭部には構築式が描かれていない。特に眼球であれば、硬化のしようもないはずだ。
姿勢の制御が狂ったエナスは、反射的に全身を硬化させた。システィアは小さく息を吐くと、身動きの取れないエナスに向かって鋭い突きを放った。彼も何か察したのか、すぐに硬化を解いて、その場に崩れ落ちる。さらに追撃を加えようとすると、彼は床を転がりながら距離を取った。
顔への攻撃を避けている。どうやら読みは正しいようだった。
「初めて逃げたね。そろそろ笑えなくなってきたんじゃ………………」
言いかけて、システィアは口を閉じた。
エナスは笑っていたのだ。頬にできた切り傷を指で拭いながら、ボロボロに黄ばんだ歯を見せて笑っていた。
「狂人め」
システィアは再び飛び出した。右眼の義眼が青い閃光を放つ。
ところが、エナスは体勢を崩すような素振りはなかった。それどころか、まっすぐに正対したまま拳を構えている。
「な…………」
システィアは剣を振るう直前になって気付いた。エナスは両目を閉じていたのだ。
彼は視覚以外の情報から、攻撃のタイミングを取ろうとしていた。それはまさに、月島でシスティアが父から教わった技そのものであった。
ギィン…………。と、金属を硬いものに打ち付けた音が響いた。システィアの眼前で折れた刃が舞う。
エナスは素早く身を翻すと、システィアの右腕に強烈な蹴りを放った。義手は派手な音を立てて、粉々に砕け散った。
彼の追撃は、まだ止まない。床に転がるシスティアへ飛びかかり、岩のような白い拳を振り上げる。
◇◇◇
「ゴホッ…………! ゴホッ!」
舞い上がる土煙の中、システィアが顔を上げると、穴の空いた天井が見えた。間一髪で躱した拳は二階の床を破壊したようで、システィアの体はそのまま一階へと落ちてしまったらしい。
揺らぐ視界で辺りを見回すと、システィアは思わず「あ…………」と声を漏らして固まってしまった。
パチパチと揺らぐ炎。ランプの火が瓦礫に燃え移ったのだ。その勢いは次第に強くなっていく。
折れた剣を握る手が震える。鼓動が速くなる。頭の奥底で助けを呼ぶ声がこだましている。
終わったはずの戦場が。死んだはずの戦友の姿が。揺らぐ炎の中に鮮明に浮かんだ。
その炎を背に、エナスはゆっくりと立ち上がった。火が移った上着を脱ぎ捨て、構築式がびっしりと描かれた体が明々と照らされる。度重なる戦闘の末に洗練された肉体は、白い肌も相まって美しい彫刻のようにも見えた。
彼は拳を握りしめ、ゆっくりと構える。
剣は折れた。右腕も壊れた。義眼ももう効かない。
「立て! 立て、システィ!」
システィアは叫んだ。
ここで死んではいけない。エナスを、この化け物をここから先へ向かわせてはいけない。
彰とリリアを守らなければ。
立ち上がったシスティアを見て、エナスの顔から笑みが消えた。追い詰められた獣ほど恐ろしいものはない。
握っていた拳を解き、呼吸を整える。彼の胸に描かれていた構築式が赤黒い光を放った。




