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リリアは目の前の湯呑を手に取った。口元まで持っていこうとするが、少し迷って再び机に置く。
「『シルヴァ』って偉い人?」
不安げな様子で尋ねると、隣に座る彰は小さく頷いた。
「陸軍中将だからな」
「ふーん……………………。チュウジョウって何?」
「陸軍の偉い人」
「何も情報量増えてないんだけど」
大きく息を吐くと、長椅子の肘掛けにもたれかかった。部屋の窓の外では、西の空が赤く染まり始めている。
リリアが蜘蛛の娘だと知ると、ヘクターは「親父を呼んでくる」と、二人を残して部屋を出ていってしまった。それからしばらく経つが、彼はまだ帰って来ない。リリアの紅茶もすっかり冷めてしまった。
「何か聞いてないの? シルヴァさんのこととか」
彰が尋ねると、リリアは首を横に振った。
「なぁんにも。誰に情報渡してたとかも知らないし、なんで裏切ったのかもよく分かんない」
そう言うと、顔を伏せて「父さん、何も話してくれなかった…………」と小さくこぼした。
なぜ話してくれなかったのか。理由は簡単で、リリアが子供だったからだ。守られるべき存在だったからだ。
それを理解したときに感じた無力感を思い出して、リリアはまた大きなため息を吐いた。
その時、部屋の外から靴音が聞こえてきた。音からして小走りで来ているようだ。二人は咄嗟に姿勢を正す。
その靴音が扉の前で止まると、乾いたノックの音が聞こえた。
「はぁ…………はぁ…………」
扉の向こうに立っていたのは、臙脂色の軍服を着たシルヴァだった。呼吸を整えながら、長椅子に座るリリアを見つめる。
「君が…………」
おぼつかない足取りでリリアの前まで来ると、崩れ落ちるように両手を床についた。
「君には………………、本当に申し訳ないことをしてしまった………………」
「ちょ、え、あ、頭上げてください」
「生きていてくれて、本当に良かった………………」
彼の口から溢れた一言に、リリアは思わず固まった。
自分は生きていて良いのだろうか。
九頭龍から追われる身になってから感じるようになった疑問。最近は考えることも少なくなったが、今でも一人になると不意に現れることがある。その度に「生きていても良いんだ」と言い聞かせるが、「なぜ?」という問いには答えられず、いつも曖昧な自己肯定を繰り返していた。
それが今、家族でもない、名前も知らなかった人間から存在を肯定されたことで、何故か「生きていても良いんだ」と素直に思えた。心の中で支えていたものが取れた気がして、自然と目頭が熱くなるのが分かった。
「大丈夫か?」
彰の温かい手が背中を撫でる。「大丈夫」と答えようとしたリリアの口から嗚咽が漏れた。
◇◇◇
「湯呑で紅茶か」
シルヴァが言うと、紅茶を注いでいたヘクターは「飲めればいいんですよ」と返した。柔らかい香りが小さな部屋に広がる。
「父さんについて…………、聞かせてもらえますか?」
リリアが尋ねると、シルヴァは昔を思い出すように目を閉じる。少しして彼は口を開いた。
「出会ったのは、私が入隊して五年目の頃。ある日の帰り道で一人の少年に襲われました。いわゆる『貴族狩り』というやつです。」
「え…………、父さんに襲われたってことですか?」
シルヴァは笑いながら頷く。リリアは「すいません」と苦笑した。
「少年相手に不覚を取ることはありませんでしたが、私も貴族の端くれ。貴族への暴行は、子供であろうと問答無用で死罪になります。幸い目撃者もいなかったので、彼に少し金を渡して見逃しました。私が彼にしたことは、たったそれだけです。
再会したのは、それから何年も経った後でした。『蜘蛛』を名乗る彼に教えられて、初めて九頭龍の存在を知った私は、彼に組織の情報を流すよう指示しました」
そこで息を吐くと、紅茶を一口飲んだ。窓の外からカラスの声が聞こえてくる。
「八年前の秋」
シルヴァが呟くと、リリアは目を落とした。
「集会が行われるという情報を得た我々は、同日、掃討作戦を決行しました。しかし………………、こちらの情報が漏れていたのか、我々が着く頃には誰も居らず、殺された彼だけが残されていました」
話し終えた彼の表情は、彼が抱えてきた罪悪感を物語っていた。部屋は再び静まり返る。
その静寂を破るように、リリアは目の前の湯呑を手に取ると、一気に紅茶を飲み干した。驚いた様子で目を見開いたシルヴァに、彼女は努めて明るい口調で話し始めた。
「父は、時々アタシを置いて出かけることがありました。どこに行くのか聞いたら、『世界一偉い人に会ってくるんだ』って笑ってました。きっと不器用な父さんなりに、恩を返そうとしてたんです。だから――――」
リリアはシルヴァに笑いかけた。
「父さんはシルヴァさんのこと、これっぽっちも恨んでないと思います。もちろんアタシだって恨んでません」
そう言い切ると、軽やかな音を立てて湯呑を置いた。その姿を見たシルヴァは、「ありがとう」と小さく言って目頭を抑えた。
「その芯の強さ、彼を思い出します」
「親子ですから」
「では、次は私が恩を返さなければ」
首を傾げるリリアに、シルヴァは続ける。
「今後、些細なことでも困り事があれば、何でも私に言ってください。出来得る限りのことであれば、何でもしましょう」
「何でも?」
「ん?」
リリアの表情が変わった。
「何でも、って言いました?」
「まぁ…………、はい」
「……………………ちょっと待ってください」
嫌な予感がした彰がチラリと横を見ると、リリアは「二階建てで…………庭も欲しいな………………いや、もっといけるか…………?」と呟きながら眉間にシワを寄せていた。このままでは「城と民がほしい」とでも言い出しそうな雰囲気だ。
「…………また後ででも良いんじゃないか?」
彰が言うと、シルヴァも笑って頷いた。
「何かあれば、いつでも我が家に来てください。家内にも伝えておきますから」
我に返ったリリアは「ありがとうございます。考えておきます」と言って、照れたように笑った。
◇◇◇
リリアを送り、彰が家に帰る頃、日はすっかり沈んでいた。「ただいま」と玄関の戸を開けると、香ばしいハーブの香りがした。
「おう、帰ったか」
入ってすぐアクレスの声が聞こえてきた。見ると、テーブルに置かれた円盤の上で鍋がコトコト煮えている。ディアスの店でも見かけたが、あの円盤はどうやら魔法で加熱する調理器具らしい。
「遅かったな」
「いろいろあってさ」
「そうか。飯はもうすぐできるぞ」
今日あったことをアクレスに言おうかと思ったが、それを説明するのも面倒くさい。適当に荷物を置くと、彰は再び玄関に向かった。家に水道が無いため、手を洗うにも共用の蛇口へ行かなければならないのだ。
「ついでに水汲んできてくれ。洗い物用の」
アクレスの注文に「はいよ」と答えると、流しの横に置いてあったバケツを手にとって外へ出た。
冬の水は驚くほど冷たい。手を洗うだけで、全身の体温がまるごと持っていかれるような気さえする。
ガチガチと震えながらハンカチを探ると、小さな箱のようなものに手が触れた。何かと思い、懐から取り出す。
「あ、これ…………」
手のひらに乗るほどの黒い箱。月島で蟷螂を埋める際に拾った物だ。結局、使い方がわからないまま完全に存在を忘れていた。適当にダイヤルを回してみるが、やはり反応はない。
壊れたのかと思って、懐へ戻そうとしたその時、ふと思い出した。この世界には「魔法」が存在するのだ。
「力を込めずに、優しく…………、だっけ?」
ソフィアに言われたことを復唱しながら、その箱を両手で包み込む。
駄目でもともとだ、と半分諦めていた彰だったが、次の瞬間、両手のひらから何かを吸い取られるような感覚がした。驚いて箱を見てみると、薄ぼんやりと青色の光を放っている。
戸惑いながら、適当にダイヤルを回したり、ボタンを押してみたりしていると、やがて『ザザッ…………』とノイズが聞こえてきた。
この世界に無線通信機が無いことは、以前ソフィアに確認している。だが、この箱が発するノイズ音は、まるでラジオのチャンネルを適当に回した時の音に似ていた。
『…………ザ……あ…………れか』
ダイヤルを回していると、不意に声が聞こえた。やはり、何らかの受信機なのだろうか。少なくとも、この装置はこの世界の物ではないことは確かだ。
『……ザ…………誰かな……。おーい。誰だね、君は』
チャンネルが合った。聞こえてきたのは男の声。
『君、聞こえるかね』
彰はボタンを押しながら「……誰だ?」と尋ねた。
『お! よしよし、聞こえたね』
こちらの声も発信できるらしい。
『いきなりで申し訳ないが、君の持っている、その「装置」の持ち主は死んだはずなんだ。君はどこで「これ」を拾ったのかな?』
「…………山で拾った。月島の」
『おぉ、そうか。ぜひ返してほしいのだが、会えるだろうか? 君、名前は何かね』
彰は少し迷って答えた。
「俺はアキラだ。お前、九頭龍の何なんだ?」
すると、通信機の向こうで「ガタン」と何かが崩れたような音がした。それからしばらくして、大きな笑い声が聞こえてきた。
『ハハハハ! なんという偶然! いや、これこそ「運命」か! アキラ君! イリヤ・アキラ君! 君と話ができて光栄だよ!』
ひとしきり笑うと、その男は改まった口調で言った。
『失礼。自己紹介が遅れたね。私の名前はサミュエル・サルフェンス。ただ、最近は別の名前で呼ばれることも多いんだ。君もそちらで呼んでくれて構わないよ。「戦争屋」とね』




