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目の前に置かれているのは、サッカーボール大の木の玉。まるで装飾のように、緻密な構築式が表面に彫りこまれている。
彰はそれを両手で取ると、潰すように力を込めた。
「ダメだって、ギュッとしちゃあさ」
「えぇ? どうすんのさ」
「貸してみ」
ソフィアはボサボサの赤髪を掻くと、彰から木の玉を受け取った。
「そっと、優しくやんのさ」
ソフィアが抱え込むと、描かれた構築式が淡い青に輝き始める。彼女が「ほら」と手を離して見せると、木の玉はフワフワと宙に浮き上がった。
「『浮木玉』ってんだ。よくある玩具だよ。魔法の練習にはちょうど良い」
浮木玉は風船のようにしばらく浮遊し、本の山の上にボトリと落ちる。そのままゴロゴロと転がると、リリアの足に当たって止まった。
「研究室って、もっと整理されてるっていうか、………………洗練されてるもんだと思ってた」
リリアは木の玉を拾い上げると、辺りを見回して肩を落とした。
ここは中央都、王立中央総合研究棟にあるソフィアの研究室。赤レンガの美しい外観に隠された、混沌とした学者の聖域である。
「どこもこんなもんよ」
ソフィアが言うと、他の机から「…………んなことないっすよ」という声が聞こえてきた。
「それで、リリアちゃんは何だっけ?」
「あ、これ見てほしくて……。動かなくなっちゃったんです」
リリアが鞄から取り出したのは、いつも戦闘時に着けているグローブだ。腕部にあるボビンのようなものから指先へ、銀色の糸が伸びている。
ソフィアはグローブを受け取ると、「最近小さい文字がさ…………」と眼鏡を額に上げて目を細める。しばらく眺めると、リリアに尋ねる。
「構築式が削れてるね。あと、少し大きくない?」
「父のを貰ったので」
「あ、そう。…………で、この構築式は何をしようってのかな?」
「糸を」
「糸を巻く、と。なるほど。糸の巻き取りだけ?」
「いや」
「糸出すのも兼ねてんのね。にしても冗長だなぁ。誰が書いたんだぁ? この辺も変えちゃっていいよね?」
「…………」
「だよね。あと、糸の方も変えちゃおうか。もうちょっと機能も増やしてみよう」
ぶつぶつと呟きながら、彼女は自分の机で紙にフローチャートのようなものを描き始めた。取り残されたリリアは、呆然とした顔で彰を見る。彰は肩をすくめて首を傾げる。
「あ、あの!」
リリアが声をかけると、ソフィアは「あ、ごめん」と笑いながら振り返った。
「つい集中しちゃうとね。で、なに?」
「それ、直してくれるんですか?」
「もちろん。…………あ、お代はいいよ。子供から金取るほど、食べるのに困ってないし」
それを聞いたリリアは途端に笑顔になって「ありがとうございます!」と頭を下げた。ソフィアもまんざらでもないような笑みを浮かべて頭を掻く。
「私も趣味でやってるからさ。ま、三日くらいかな。できたら連絡するよ。…………たしか、システィの家だよね?」
「そうです」
「よっしゃ、任せといて」
ソフィアは机に置いてあった本や資料をまとめて床の上に置いた。その拍子に、そばにあった本の山が崩れ落ちる。彰は足元に飛んできた資料を眺めると、「ソフィアさん」と尋ねた。
「俺たちの相手してても大丈夫なの?」
「何が?」
「研究者って、まぁ分かんないけど、なんか研究とかあるんじゃないの? これ、ひと月後に進捗の報告がどうのって書いてあるけど…………。ほら、こっちも」
部屋に居た研究員の視線がソフィアに集まった。彼女は「あーぁ…………」とばつが悪そうに視線を逸らす。
「たまには休憩ってのも必要だと思うんだ」
研究室からため息が聞こえた。
◇◇◇
次第にひどくなる雨の中、ユドラーは傘もささずに街を歩いていく。
彼の足が向かったのは中央都の郊外。魔獣の生息する森に近く、ほとんど人の寄り付かないような場所に建っている、茶色の蔦で覆われた一軒の家だった。
彼は古くなった扉に手をかける。錠はかかっておらず、強めにノブを引くと簡単に扉が開いた。
「やぁ、ただいま」
薄暗い部屋に入ってすぐ、近くの椅子に濡れた上着を投げる。
ここは陸軍大将、ユドラー・レルネイアの住む家。といっても、月島総督であった頃は月島に小さな家を借りていたため、ここにはしばらく帰っていない。まだ掃除もしておらず、窓はくすんで、あちこちに埃が溜まっていた。
「ったく、これが大将の住む家か?」
その時、物陰から一人の男が現れた。深くかぶった帽子のつばから、葉巻の煙が漏れ出ている。ユドラーは呟いた。
「鴉。まだ生きていたか」
「まったくだぜ。月島でくたばッちまえば良かったんだ」
ボロボロのフードを被った小柄な男がユドラーに続いた。机の上に座っていた彼を見て、ユドラーは眉間に皺を寄せる。
「鼠。そこは私の机だ」
「おぉッと、すまねェ……。へへ、地上に出るのは久々でね、礼儀作法ってのを忘れちまってたよ」
「礼儀も作法も知らねぇくせに良く言うぜ」
鴉が言うと、「そらお前もだ」と鼠は笑った。
すると、ユドラーの背後でガタンと扉が開いた。扉の向こうに立っていたのは、黒い服を着た細身の男。右手には黒い傘を持っている。
「おや、皆さんお揃いで」
「梟。お前が最後とは珍しい」
ユドラーが言った。梟は「九頭龍も少なくなったものですね」と苦笑する。
鴉は彼に尋ねた。
「おい、梟。蟷螂の兄ちゃんはどうした。本当に殺したのか?」
「えぇ。かなり抵抗されましたが」
梟は苦い顔で答えた。彼の顔には抉られたような深い傷がついていて、左腕は肩から包帯で吊っている。彼は器用に片手で傘を閉じると、白い息を吐きながら壁に寄り掛かった。
ユドラーは興味無さそうに「ご苦労さん」と呟くと、服のボタンを外し始めた。その様子を見て梟が尋ねる。
「傘はささなかったんですか?」
「たまには雨に濡れるのも悪くないぞ。気分が良い日は特に」
彼は来ていた服を脱ぐと、椅子に投げた。それと同時に、窓の外で稲光が鳴く。
「国王もなかなか勘が鋭い。月島ではヒヤリとしたよ。あの場に瓦屋の爺がいなければ、思わず首を落としていたところだ」
露になった彼の背中には、九つの首を持った龍が這っていた。九頭竜を表す、不気味な龍が。
ユドラーは窓の外へ目を向けた。その視線の先にあるのは、再建中の城。
彼は三人を振り返ると、不敵な笑みを浮かべて言った。
「私の龍としての仕事も大詰めだ。さて、会議を始めようか」




