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ヘクターは傘立てを探る。持ってきたはずの傘が無くなっていた。誰かが間違えて持って行ったのだろうが、だからといって別の傘を持って帰るわけにもいかない。
小さくため息を吐いて肩を落とした。安いものではないのだが。
扉の外では、しとしとと雨が降り続いていた。フードを被っていけば帰れないような強さではない。まだ日は沈んでいないはずだが、雨雲のせいで夜のように真っ暗だった。
「お、ヘクターじゃん」
ちょうどフードに手をかけたところで、背後から名前を呼ばれた。振り返ると、見知った顔が立っていた。
「システィ、帰ってたのか」
「そ。この前、国王陛下御一行の後ろにくっついてね」
立っていたのは同期のシスティアだ。任務で月島へ行っていたはずだが、どうやら中央都へ帰ってきていたらしい。
彼女は傘もささずに帰ろうとしているヘクターを見て笑いながら尋ねた。
「傘忘れたの?」
「いや、盗られた」
システィアは「あーぁ、残念」と言うと、意地悪な笑みを浮かべてヘクターを見た。
「私、傘あるけど。一緒に入って帰る?」
「いや、いいよ。走って帰れる」
「ちょいちょい! 少し照れるとかしろよ! …………ったく、可愛げないなぁ。そんなだと彼女できないぞ」
ぶつぶつ呟きながら傘立てを探るシスティア。だが、すぐに彼女はピタリと動きを止めた。
「どうした?」
「………………傘、盗られた」
中央司令部の食堂で夕食を終える頃には、雨はもう止んでいた。代わりにチラチラと白い雪が降っている。すっかり暗くなった通りを、ガス灯のぼんやりとした灯りが照らしていた。
やはり傘は無かったが、この程度の雪ならば傘をさすまでもない。二人は庁舎を出ると、石畳の通りを並んで歩き始めた。寒さのせいか、外を歩く人はほとんど居なかった。静まり返った夜の街に二人の靴音だけが響いている。
「実家、大丈夫なのか?」
システィアは小さく頷く。
「うん。グレイスがいるし」
「グレイス君か…………」
「……言いたいことは分かるけど、たぶんアイツはもう大丈夫」
「そうか。俺にできることがあったら何でも言えよ」
「ありがと」
「あ、それ」
システィアはヘクターが何気なく着けた手袋を指さした。所々ほつれた毛糸の手袋。鮮やかだった赤色も、すっかり色あせてしまっている。
ヘクターは思わず「あ」と呟く。
「それ、私が昔あげたやつっしょ。まだ使ってんの?」
「…………俺、物持ちが良いから」
「あっそ。………………ふふ」
小さく笑うシスティアの横で、ヘクターは外套の襟を立てた。
「兄貴も最後まで持ってたな。手袋」
「知ってる。アイアスさん、めっちゃ嬉しそうに着けてくれて。兄弟揃ってさ………………」
ヘクターの義兄、アイアス・グランシア。シルヴァの実子にして、グランシア家の次期当主だった男だ。容姿も剣の才能も持ち合わせ、同時に誰からも愛される人柄だった。血が繋がっていなくて良かったと思ったほどだ。
本当の兄弟だったら、きっと正気ではいられなかっただろう。
ちらりと横を歩くシスティアを見る。彼女は懐かしそうな目で、曇った夜空を見上げていた。
二人は恋仲だった。別に本人から聞いたわけではないが、横で見ていれば分かった。
「あんたは死なないでよ」
不意にシスティアが呟いた。ヘクターは「俺?」と聞き返す。
「そ。最近、貴族狩りが流行ってるっていうじゃん?」
「あぁ、らしいな」
「あんたも貴族でしょ?」
「養子を殺したところで意味ないだろ。別の養子が来るだけだ」
「あんたさぁ………………。はぁ」
呆れた様子でため息を吐くと、彼女はヘクターの肩を叩いた。
「この辺でいいよ。ありがと」
システィアの住む寮は司令部の近くにある。ヘクターは「おう」と応えて片手を挙げた。
「あんたも頑張ってるよ」
不意にシスティアが呟いた。見透かされたような気がして、ヘクターは思わず立ち止まる。振り返ると、彼女は「またね」と言って歩いて行ってしまった。
◇◇◇
静かな雪の夜。家の門の前に立つと、何故か胸騒ぎがした。
理由を聞かれれば「なんとなく」としか答えようがない。が、ヘクターは腰の拳銃を抜くと、静かに弾丸を込めた。
敷地へ入ると、直感は確信に変わった。一階厨房の窓が開いている。
掃除の際に開けることはあるが、この季節に開けっ放しにしておくことはあり得ない。乾燥した外気が入るのを義母、スカーレットが嫌うからだ。
「貴族狩りって………………、まじかよ」
困惑気味に呟いた直後、ガチャンと何かが割れる音がした。背筋を冷たい汗が伝う。
家族を失うのは二度とごめんだ。
ヘクターは開いた窓に身体を滑り込ませると、拳銃を片手に館の中を走った。
綺麗に清掃された廊下には、泥のついた足跡がついていた。階段を駆け上がり、目的の部屋へ向かう。音がしたのは二階の奥。二人の寝室だ。
ノブに手をかけようとした瞬間、蹴破られるような勢いで扉が開いた。
「キャァァーッ!」
「義母さん。落ち着いて、俺です」
飛び出てきたスカーレットを受け止めると、素早く拳銃を構えた。
「ヘクター。そのままスカラを連れて逃げなさい」
剣を構えたシルヴァが言った。足元に散らばる割れた陶器が、彼の血で赤く染まっている。ヘクターはスカーレットを背にすると、彼の対峙している男に銃を向けた。
その男は持っていたナイフをクルリと回し、不敵な笑みを浮かべる。
「おぉーっと、二対一ってのぁズルくねぇか? 軍人に騎士道は無ェのかよ」
「武器を捨てて手を挙げろ」
「分かった分かった。言う通りにするよ」
男はそう言うや否や、持っていたナイフを投げた。ヘクター目掛けて飛んできたそれを、シルヴァは剣で弾き飛ばす。
「私の息子に手を出さないでもらおうか」
「良い腕だな、爺さん」
ヘクターは男に照準を合わせて引き金を引いた。しかし、男は身体を捻って弾丸を躱す。
「かァ――――ッ! 見たか? 避けたぜ! 俺もまだまだ現役だなァ!」
男は懐からナイフを五本取り出して宙へ放った。青く輝く刃は、彼の周囲をふわふわと漂いながら、刃先をシルヴァに向ける。
それを見たシルヴァは小さな声で「鴉か」と呟いた。
「…………詳しいな、爺さん」
男の表情が変わった。
「前に会ったか?」
「昔、友人が九頭龍に殺されたんだ。彼から君の話も聞いている」
「そうか、アンタか…………」
その男、鴉はそう言うと、パチンと指を鳴らした。それを合図に、宙を漂っていたナイフが彼の懐へ帰っていく。
ヘクターが銃を構えると、シルヴァは目でそれを制した。
「あいつの恩人は殺せねぇ」
鴉は背後の窓を開ける。しかし、そこで立ち止まると、「一つ教えてやる」と言ってシルヴァを振り返った。
「あいつには娘が一人いる。今、この街に来てるぜ」
その言葉を残し、彼は夜の闇へと消えた。
「義父さん!」
固まったまま立ち尽くしているシルヴァに、ヘクターは叫んだ。
「どうして逃したんですか! どうして…………」
「すまない」
シルヴァは小さな声で謝ると、その場に座り込んだ。スカーレットは慌てて包帯を取ってくると、彼の負傷した腕に巻き始める。
「知り合い……、なんですか?」
その問いかけに、シルヴァは首を横に振る。そして、ただ一言。
「蜘蛛に……娘………………」
そう呟くと、雪の吹き込む窓を見つめて黙り込んだ。




