36
夕闇の中へ沈んだ森は、ザワザワと不気味な音を立てていた。
『子供一人。逃げられると思うな』
白髮の老人が、血に染まった刀を片手に近づいてくる。
蹴られ、殴られ、斬りつけられ。もはや何処が痛いのかすら分からない。立って逃げようにも、長い間走り続けた脚には、もう力が入らなかった。
――ごめんなさい……! 来ないでください…………!
必死に言葉にしようとするが、喉が詰まったかのような嗚咽しか出なかった。
何度となく見た悪夢。夢だと分かっていても、染み付いた恐怖は新鮮に蘇る。
『せめてもの情けだ。苦しまずに逝かせてやる。恨むなら掟を破った父親を…………』
男の胸を鎌の刃が貫いたかと思うと、刀を持った男はたちまち黒い霧となって消えた。霧の中から現れたのは、まだ幼い少年である。両手に鎌を持った小さな蟷螂。
彼は膝を折って視線を合わせる。
――また一人にするの?
心の中で尋ねると、いつも彼はぎこちなく笑って背中を押すのだ。そして、暗闇の中に一人取り残される。
ところが、今回は違った。
『…………ごめんな、リリア。こんなダメな兄ちゃんで』
そう言って立ち上がる。手を伸ばすが届かない。
彼は髪を搔き上げて左耳を見せた。黄色の小さな耳飾りが揺れる。
『でも、もう一人じゃない。そうだろ?』
彼は笑った。いつものぎこちない笑顔ではない。優しさの籠もった、ただ少しだけ悲しそうな眼差しで、静かに微笑んでいた。
リリアの脚に力が漲る。これは夢であり、過去の出来事。
母親のような愛を与えてくれる人がいる。家族と言ってくれる人がいる。そして、その身をなげうって護ってくれる人がいる。
今はもう一人じゃない。
『まだこっちには来るなよ』
歩き出したリリアの背中に、微かに彼の声が聞こえた。
◇◇◇
息を吸うと、薬品のニオイが鼻の奥に広がった。まるで薬箱の中に放り込まれたような気分。続いて襲ってきた全身の痛みで、ぼんやりとしていた意識が覚醒した。
「ぅ…………………んん…………」
重たい瞼を持ち上げると、飛び込んできた白い光に思わず目が眩んだ。しばらく薄目を開けて光に慣らすと、ようやく視界が機能し始める。
ずらりと並んだベッドに、包帯を巻かれた人が横たわっている。同じように包帯が巻かれた手足を見るに、どうやら自分もその一人らしい。
ここは病院の中だろう。昔一度だけ連れてこられたことがある。
と、するならば、悠長に寝ているわけにはいかない。診察に加えて入院となると、いったい幾ら必要になるのだろうか。とても手持ちの金で賄えるわけがない。
なんとかここから逃げなければ。それがまず頭に浮かんだ。
リリアが痛みを我慢しながら身じろぎすると、そのシーツの裾を何者かが引っ張った。
「逃げなくていいって」
「ひぃ…………!」
「なんだその声………………」
呆れた顔でリリアを見ていたのは、腕に包帯を巻いた彰だった。血色の悪い顔には小さな傷が付いている。
あれからどうなったのだろう。梟が現れて、彰を投げ飛ばして…………。そのあとの記憶がぼんやりとしている。
リリアが眉間にシワを寄せて考え込んでいると、彰が「体調は?」と尋ねてきた。
「…………まぁ、良くないけど」
「そらそうか」
「アキラは? 寝てなくて良いの?」
リリアが尋ねると、看護師がバタバタと廊下を駆けてくる足音が聞こえてきた。間を置かず、ガラガラと部屋の引き戸が開く。
「あぁ、やっぱりここに居たか!」
やや太り気味の彼女は、のしのしとリリアのベッドまで来ると、彰の首根っこを掴んだ。
「ぅげ……」
「いっつもフラフラ勝手に歩いて! 寝てなさいってセンセも言ってたでしょ! ……あ! リリアさん、起きたのね! ちょうど今センセ回ってるから!」
彰はそのまま引きずられるように連れていかれた。それと入れ替わるように、白衣姿の背の高い女性が入って来る。彼女は「ケガ人相手にようやるなぁ」と小さく呟いた。
「リリアさん。目ェ覚めたみたいやね」
「どうも……」
警戒心むき出しで答えるリリアを見て、彼女はこらえきれずに笑い出した。
「なんや、えらい警戒されとるなぁ。自分のセンセやで。軍のお医者さんや。メラン先生って呼んでな」
「メラン先生…………」
「その調子」
メランと名乗る彼女は、バインダーに挟んだカルテをペラペラとめくりながら「せやせや」と呟く。
「ほな傷の具合、見せてもらいましょか」
「傷…………」
それを聞いてリリアは気づいた。全身に巻かれた包帯は手足はもちろん、首から胸にかけて全身を覆っている。
リリアは慌てて首もとを抑えた。メランは小さく笑う。
「あ、刺青か。そんなん気にせんでもええて」
「…………」
「金もアクレスさんから、しっかり貰っとる。アタシは金さえ貰えれば親の仇でも診る女やで。それに、月島じゃ刺青の一つや二つは誰も気にせんて」
メランはリリアの手を取ると、慣れた様子で包帯を解いていった。露わになった痛々しい傷に、リリアは思わず顔を背ける。
メランは「目ェつむっててもエエで」と優しく言うと、傷口に何やら薬品を塗り始めた。
「いたっ…………」
「ふふっ。沁みるやろ。でも我慢しぃや」
笑いながら、容赦なく薬を塗っていく。
「システィアちゃん、おるやろ」
「え?」
「アタシ、あの子と同期なんよ。この前も『妹できた!』ゆうてなぁ、リリアちゃんのこと嬉しそうに話しとったわ」
メランはそこで薬を塗る手を止めると、「あの子のこと、頼むわ」と小さく呟いた。
「頼む、って……?」
「アタシは駄目やった。アタシは『友達』やから…………」
メランはリリアの目を見つめながら、静かな口調で言った。
「今、あの子を支えられるんは、家族だけや。なんも言わんでエエから、傍に居てあげたってな」
◇◇◇
二人がいたのは軍の病院だった。代金はアクレスが全て肩代わりしてくれたらしい。
患者が多いようで、二人は同じ日に追い出されるように退院させられた。
「よう。退院おめっとさん」
迎えに来てくれたのはアクレス一人だった。入院中も見舞いに来てくれたのはアクレスただ一人。
「あいつら、いろいろと忙しかったからな。許してやってくれ」
歩きながらアクレスが言った。二人は何も言えなかった。
マサ爺が亡くなったことは、既にアクレスの口から聞いていた。二人は通夜やら葬式やらで忙殺されていたと聞いている。
アクレスの目の下にも濃いクマができていた。
「…………で、ここか」
アクレスが倒れた看板を見て言った。そこに書かれていたのは『月の宿』の文字。エリとケイロンが経営する居酒屋である。
店の前には、割れたグラスや壊れた椅子が置かれていた。
軋む扉を開けると、ケイロンとグレイスが、カウンターの席に座って何か話していた。
エリの姿は無い。
「おう。退院おめでとう」
グレイスが片手を挙げた。ケイロンは優しく微笑む。二人とも、顔や腕に傷が見えた。
「怪我は大丈夫か」
「アタシは大丈夫です」
「俺も、もうなんとも無いです。…………それより」
彰は躊躇いながらも尋ねた。
「エリさんが連れ去られたってのは…………」
ケイロンは視線を落とすと「ここは
しばらく休業するよ」と答えた。
あの夜。九頭龍が狙っていた転移者は彰だけではなかった。この酒場にも一人、九頭龍の刺客が現れたのだ。
「俺、剣持ってたってのに、何もできないで…………。ちくしょう………………」
「自分を責めるな。お前のせいじゃない」
拳を握りしめるグレイスの肩を、ケイロンが優しく叩く。二人の傷はその夜のものだ。
二人を見て彰は唇を噛みしめた。
これまで、この店はエリがいるにもかかわらず襲われることはなかった。それは店の存在が九頭龍に知られていなかったからだ。
それが、なぜ今になって知られてしまったのか。どう考えても、きっかけは彰の来店だろう。
「アキラ」
ケイロンが彰に手を伸ばした。殴られるかと、思わず彰は目を閉じる。
しかし、彼の手はそっと彰の頭を撫でた。
「お前もだ。自分を責めるな」
「でも」
「お前に責任はない」
それに、と彼は付け加える。
「向こうにはアルフレッドがいる。心配はない。お前は構わず前に進め。エリもそう言うはずだ」
彰は拳を握りしめると、深く頭を下げた。




