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時間を稼がなければ。
リリアの頭にあるのはそれだけだった。深く集中しているせいか、梟の攻撃も致命傷は回避できている。だが、傷は増えていく一方だ。動きが鈍くなっているのは、リリア自身もよく分かっていた。
幸い、狙いはリリアに絞られているようだった。九頭龍で最も掟に厳しいのは彼だ。転移者の誘拐より、裏切り者の排除が優先なのだろう。
麓の街へ辿り着けば、彰は助けを呼ぶに違いない。ただ、それまで保つかどうか。
「は…………ッ、は……ッ、は………………ッ!」
呼吸が荒い。傷の痛みも無くなってきた。きっと、このままでは保たない。だが、リリアはそれでも良かった。
命は惜しい。でも、それ以上に彰を失うことの方が、いや彰が死んでしまうことの方が恐ろしかった。
「案外と……………………、しぶといですね」
輪郭のぼやけた影が、鬱陶しそうに言った。それに答える気力もない。
脚から力が抜けた。思わず地面に膝をつく。顔を上げると、銀の刃が見えた。
目前に迫る死。ただ、不思議と心は落ち着いていた。
これで良い。
疎まれ、憎まれ。いつも誰かの足を引っ張りながら生きてきた。それでも最期には人の役に立てたのだ。
リリアは穏やかな表情で瞼を閉じた。
「あ…………………………?」
ところが、その体は倒れる前に何者かの腕に支えられた。直後に響いたのは、金属のぶつかりあう甲高い音。
目を開けると、泥だらけの彰がリリアの顔を見下ろしていた。
「なんで…………。なんで……、逃げてない……………………」
「俺が!」
荒い呼吸を整えて、彰が叫ぶ。
「お前を置いて行くわけ無いだろうが!」
そっとリリアを座らせると、彼は霧の奥を睨みつけて剣を構えた。
目の前に立つ彼の背中は、これまでとはまるで違って見えた。夏も終わりの頃、山で薄い布越しに感じた、温かいけれども、どこか頼りないような少年の背中はもう無かった。
そこに立っていたのは、守るべき弱者ではない。彼は、一人の男として剣を構えていた。
◇◇◇
「…………そこで待ってろ。二人で帰るぞ」
彰は静かに言うと、ゆっくりと目を閉じた。
初めは気配を追えていた。学んだ技術が通用していないわけではない。より鋭く。より深く。梟の微かな気配を探る。
彰は短く息を吸うと、振り向きざまに剣を振るった。背後のリリアの頭上を越え、そこへ伸びていた刃を弾く。
「おい、梟。相手は俺だ」
「…………。良いでしょう」
梟は再び霧の中へ消えた。
やはり足音は無い。だが、消えたわけではない。微かに霧が揺れている。気配は小さいものの、確かにあるのだ。
彰は小さく体を捻った。その残像を追うように、梟の刃が空を斬る。
躱せた、と思ったのも束の間、梟の追撃が彰の左肩を抉った。
「この…………ッ!」
剣を振るうと、その剣筋を縫うように細剣が彰の脇腹を裂いた。冷たい霧が赤色に染まる。気配は探れても、技術の差は圧倒的だった。
彰の傷は増えていく一方だ。振り慣れたはずの剣が重い。もう時間はかけていられなかった。奇策でもなんでも、とにかく決着を急がなければならない。
彰は片手で剣を構える。不審に思ったのか、梟は一拍置いてから鋭い突きを放った。
剣を握っている右手の肩を狙った一撃。直線的に動く剣の軌道であれば簡単に読める。彰は空いた左手をまっすぐ剣に伸ばすと、べったりと血糊のついた刃を握りしめた。
「な…………」
「掴まえたァ!」
刃が指の骨に食い込む感触がした。痛みはもう気にならない。
歯を食いしばりながら片手に構えていた剣を振るう。梟は素早く体を翻すと、彰の鳩尾に蹴りをねじ込んだ。
「――――――――ッ!」
視界がぐらつく。が、刃を握った左手は離さない。両目を見開いた梟の顔面に、彰は再び剣を振るった。
彼は大きく飛び退くと、頬についた傷を拭う。
「これは…………、鴉が貴方を逃がした理由が分かりました」
彰の握りしめる直刀を見つめると、口元に笑みを浮かべて言った。
「記念にそれは差し上げますよ」
腰から短刀を取り出す。構築式は描かれていない、ただの刃物だ。じきに霧も晴れる。
彰は梟の剣を投げ捨てる。左手は思うように動かなかった。この手では剣を握れても上手く扱えない。相手も短刀になったが、右腕だけで敵う相手ではないだろう。
不意に背後でリリアの身体がドサリと地面に崩れ落ちた。思わず振り返る彰。その瞬間、彰は自身の死を覚悟した。
まさに一瞬。瞬きの間に梟は彰との間合いを詰めていたのだ。
「余所見とは。残念です」
反応する暇も無い。右手の剣を振り上げる前に、彼の短刀が首元へ迫る。
しかし。
「逃げろ!」
その刃を飛んできた鎌がはじき返した。鎌に続く鎖の先には、腹から血を流しながら立つ男の姿。
立ち尽くしていた彰だったが、「さっさと走れ!」という男の言葉でようやく剣を投げ捨て走り出した。追おうとする梟だったが、彼がすぐさま間に割って入る。
「蟷螂。貴方、自分が何をしているのか、理解しての行動ですか?」
「当然………………!」
蟷螂はちらりと背後を確認すると、梟の攻撃を受けながら彰の名前を叫んだ。リリアを抱き上げた彰は彼を振り返る。
「リリアを頼んだ」
「当たり前だ」
彰は答えると、薄くなった霧の中を駆け下りていった。




