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リリアが『梟』と呼んだ老人は、反りの無い刀をクルリと回した。その刃に彫られた構築式から白い霧が湧き出てくる。
「加減もできない、足音も消せない、痕跡も消せない。今頃、あの世で先代と部下が泣いてますよ」
彼は呆れた様子で言った。その足元でうずくまる『蟷螂』は、腹の傷を抑えながら梟を睨みつける。
溢れ出る霧が夜の森を喰んでいく。暗さも相まって、数メートル先すら見えなくなっていた。
「なぁ」
彰はリリアに尋ねる。
「あの爺さんとも仲良かったりしない?」
「見たら分かるでしょ!」
「だよなぁ……」
見逃してくれるような空気ではない。戦闘は避けられないだろう。ただ一方で、剣を構える彰の顔には薄い笑みが浮かんでいた。
剣を握る手が震える。この震えを起こしているのは恐怖だけではない。彰は自分の中に、期待や歓喜の入り混じった感情があることに気付いた。
梟は剣を顔の前に立てて笑う。
「良い構えですね」
その言葉を残すと、彼は深い霧の中へ溶けるように消えていった。リリア彰と背中合わせに立つと、腰から短刀を抜いて構える。
「消えたぞ、アイツ」
「視界を奪って殺すのが梟のやり方だから」
「『視界を奪う』ねぇ…………」
呟く彰の前で霧が揺らいで見えた。直後、鈍く光る刃がまっすぐ二人に迫る。
しかし彰もリリアも、まるで息を合わせたかなようなタイミングで、その突きを躱した。
通用している。あの九頭龍相手に。
竹刀でボコボコに殴られた日々は、決して無駄ではなかったのだ。
梟は素早く距離を取ると、不思議そうに首を傾げる。
「おや、読まれましたか?」
「年なんだから無理すんなよ、ジジイ」
梟の表情が変わった。
背後でリリアが「喧嘩売るな、バカ!」と呟く。その声の裏で落ち葉を踏む足音が聞こえていた。先程よりも音が大きい。視界の端で大きく霧が揺らいだ。
脚を狙った鋭い突き。彰は素早く剣を振るうと、その攻撃を弾いた。梟は小さく舌打ちすると、再び霧に姿を消す。
標的が彰に移ったようだ。狙いも単調になってきている。
「リリア」
彰は背後のリリアに耳打ちする。
「山を降りてアクレス呼んできてくれ」
「……アキラはどうすんの」
「これくらいなら凌げる。霧に紛れて行け」
背後からリリアの気配が消えた。それとほぼ同時に、梟の刃が夜霧から伸びる。マサ爺の剣筋に比べて圧倒的に遅い。これならば夜明けまででも避けていられる。
だが、彰がその刃を剣で受けると、梟は小さく呟いた。
「さて、始めましょうか」
「なに?」
彰は素早く剣を持ち直し、横一文字に薙ぎ払った。梟の体は完全に彰の間合いに入っている。ところが、その刃は霧を微かに揺らしただけで、梟の影は蒸発したかのように消えてなくなっていた。
再び集中して気配を探る彰だが、次の瞬間、背中を冷たい汗が伝った。
梟の気配が無い。
「リリア………………!」
走り出したのとほぼ同時。霧の中からリリアの悲鳴が聞こえた。
「敵を挑発し、自分へ攻撃を誘導した後に助けを呼びに行かせる。たとえ助けが間に合わなくとも、リリアさんを逃がすことができれば構わない。…………と、いったところですか」
抑揚のない声がした。
やがて見えてきたのは、地面に転がるリリアと、それを見下ろす梟。彼の握る細身の剣からは、ボタボタと血が滴っている。
彰の考えていた策は、まさに梟が言った通りのものだった。
「あの程度の攻撃であれば避けられると考えたのでしょう? 早々に相手の実力に見切りを付けてしまいましたね。実戦では命取りですよ」
冷たく言い放つ梟に、彰は剣を力任せに叩きつけた。そんな大振りの一撃が当たるわけもなく、梟は滑るように移動して躱す。
「忘れましたか? 私は言いましたよね。リリアさんを殺してから、貴方を連れて行く、と」
彼は彰の追撃も軽く躱すと、再び霧に溶けた。やはり足音一つ聞こえない。思えば、蟷螂を背後から刺した時も全く気配が無かった。
彰は唇を噛みしめる。
奴は気配を「悟らせていた」。剣での攻撃も、彰が躱せるように加減されていたのだ。
「リリア!」
振り返ると、リリアがヨロヨロと立ち上がった。その左腕はパックリと斬られ、赤い肉が見えている。
駆け寄ろうとする彰に、リリアは慌てて「後ろ!」と叫んだ。
振り向きざまに剣を振るう。その剣筋をすり抜けるように伸びた刃が、彰の頬を掠めていった。
「この――――――ッ!」
再び剣を振るが間に合わない。梟の影は霧の中へと溶けていく。実力差は圧倒的。このままでは嬲り殺しだ。
「……………………アキラ」
背後で弱々しい声がした。
「弟が……いるんでしょ………………。異世界のことは…………気にしないで……帰ることだけ考えて……………………!」
「何言ってんだ、リリア!」
不意に、体が横方向へ引っ張られた。
糸だ。腰から上体にかけて、銀色の糸が巻き付いている。
「待ッ――――――
「このまま逃げて…………!」
リリアは絞り出したような声で叫ぶと、大きく右手を引いた。投げ出された彰は、そのまま山の斜面を転がり落ちていく。
「ぐむ……ッ!」
彰の体は、木の幹に当たってようやく止まった。この辺りまでは霧が届いていないようで、枝の隙間に星空が見える。
ふらつく頭を横に向けると、麓の灯りがチラチラと見えた。何故か総督府の辺りで火柱が上がっている。あれはアクレスの仕業だろうか。
彰は立ち上がると、剣を握りしめて走り出した。




