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雑巾がけなど何年ぶりだろうか。起き上がって伸びをすると、腰の骨がパキパキと音を立てた。
「来て早々悪いな」
手桶を片手にアクレスが言った。
「腹の傷は大丈夫か?」
「もうすっかり。痛みもない」
「そら良かった」
アクレスは綺麗に磨かれた床へ座り込む。そしてカビ臭い空気を大きく吸い込むと、満足そうに笑った。
「ここは変わらねぇな」
ここはマサ爺の家の横に建つ道場。かつては門下生がかなり居たらしいが、今残っているのは雨漏り対策の桶だけである。
「あー…………ぁ、なんで俺まで手伝わなくちゃいけねぇんだ」
呟くのは、道場入口付近で寝転がるグレイスだ。疲れたような顔をしているが、彼は二往復もしていない。
「邪魔」
帰ってきたリリアが転がるグレイスを蹴る。
「どうせ何もやること無いんでしょ? 掃除の時くらい働きなよ」
「姉貴と同じこと言いやがって…………。この……、チビ姉貴め…………。良いよな、ガキは。働かなくても何も言われないんだからよ。俺だって、ついこの前まではガキだったのに…………」
「ダメな大人だ」
「うるせーな」
ブツブツ呟くグレイスに、アクレスは呆れ顔で言った。
「本来、ここで暮らすお前が率先して掃除すべきなんだよ。先生も年なんだから」
「えぇー。別にどうでも良いっすよ、こんな道場。誰も使わないんだから、取り壊しちまえばいいのになぁ……」
「お前なぁ………………、あ、そうだ!」
パン、とアクレスが手を叩いて立ち上がる。
「せっかくの道場だ。アキラ、少し稽古つけてやるよ」
「稽古?」
「おう。リリアもどうだ? そうだ、グレイスも付き合………………あれ」
振り返ると、もうそこにグレイスの影は無かった。
◇◇◇
布で視界を覆ったアクレス。彼は両手を広げると、竹刀を持つ二人に言った。
「さぁ、俺を叩いてくれ!」
リリアは引き気味にアクレスを見上げる。
「…………そういう趣味だったの?」
「ちげーよ! 今から教えることを実演してやるって言ってんだ!」
稽古、と言っても、想像していたような剣術の稽古ではないようだ。アクレス曰く「あらゆる場面で役立つ技術」らしいが。
「とにかく、それで俺を叩いてみろって」
彰とリリアは顔を見合わせると、首を傾げながら竹刀を構える。
「いくぞ?」
「おう」
彰は少しためらいながらも、竹刀をアクレスの頭めがけて振り下ろした。同時に、アクレスは僅かに横へ移動する。
シンとした道場に、風を切る音が響いた。
「どうだ! 凄いだろ! これが、今から教える…………」
その言葉の途中で、リリアはアクレスの喉元に突きを放った。しかし、アクレスは難なくそれも躱してしまう。
「お前! 説明中だろうが!」
「うっそ」
卑怯だが、完全に不意をついた一撃だった。それも、喉を狙った素早い突き。たとえ目を開けていたとしても、容易に避けられるものではない。
声の様子からリリアが驚いているのが分かったのか、アクレスは得意げに笑いながら胸を張る。
「だはははは! さぁ、いくらでも撃ち込んでこい!」
二人は竹刀を握りしめると、大口を開けて笑うアクレスに襲いかかった。
「…………と、まぁ、つまり教えてやるのは、場の『流れ』の読み方だ」
目隠しの布を取りながらアクレスは言った。
あれから約五分間。彰とリリアは、竹刀を振り続けたのだが、当てることは疎か、掠りもしなかった。
「『流れ』? 分かるように言ってくれ」
肩で息をしながら彰が尋ねる。すると、アクレスは「例えば……」と呟きながら竹刀を拾い上げて構えた。その瞬間、緩んでいた空気がピンと張り詰めた。殺気、と呼ぶには弱いが、ピンと張り詰めた緊張感は彰でも分かるほどだった。
そのまま、彼はゆっくりと振りかぶると、風を切る音を立てながら素早く振り下ろした。
「どうだ?」
アクレスは尋ねる。
「『どうだ?』って何が?」
「今、何を感じた」
「風」
「そう! 他には?」
「足音とか?」
リリアが言うと、アクレスは「その通り!」と言ってリリアを指さした。
「風、音、匂い。気付いていないだけで、相手の動きを察知する情報は膨大にあるんだ。戦闘の際には、視覚だけじゃなく、全部の感覚を研ぎ澄ませば、攻撃の『流れ』を読むことができる」
「なるほど…………?」
「そこで、だ。今から鍛えるのは、視覚以外の感覚だ」
「どうやって?」
「ほれ、着けろ」
そう言って渡してきたのは黒い手拭。先程まで目隠しに使っていたものだ。見ると、アクレスは竹刀に綿を巻き付け始めている。
なんとなく悪い予感がした彰は尋ねる。
「まさか、目隠しして攻撃を避けろとか言わないよな?」
「よし、どっちか目隠しして攻撃を避けろ」
「………………リリア。どっちが先に」
言うより早く、リリアは竹刀を握りしめていた。
「ほら、早くしてよ」
「お前」
「急所は外してあげるから」
「……………………」
彰は渋々目隠しを着けると、その頭に勢い良く竹刀が打ち込まれた。




