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 この世界でアルファベットを操る人間は、彰と同じ異世界転移者だけだ。「Bar」という単語だけで、転移者を見分ける暗号としての機能を果たしていた。


「つまり、そこに転移者がいるってこと?」

「たぶんな。少なくとも、何かしら情報はあるだろ。…………俺が思うに、こうなることもアルフレッドは分かってたんじゃないかな」


 彰の転移を的中させた男だ。この看板を目にすることを見越して、月島へと呼び出した可能性はある。


 看板の通りに路地を進んでいくと、こぢんまりとした赤レンガの建物があった。木製の古びた扉の横には「月の宿」と看板。店はここで間違いない。

 ここに転移者がいるのだろうか。


 彰がノブに手を掛けようとすると、小さな「待って」という声が背中越しに聞こえた。


「どうした?」


 振り返ると、リリアは「何でもない」と首を横に振った。


「帰る方法、見つかると良いね」

「ん? あぁ。そうだな」


 彰はそう答えたが、この地でそれが見つかるとは考えていなかった。

 というのは、アルフレッドの手紙にあった「その運命は、必ず一つの場所で収束する」という記述である。その場所が月島であるならば、そのまま書いたはずだ。つまり、彼の指している場所は月島ではないと考えて良い。

 あの手紙を全て信じるわけでは無いが、少なくとも月島ではない別の場所に異世界転移の原因がある可能性が高かった。

 彰は「開けるぞ」と言うと、軋む扉をゆっくりと開いた。



 街の様子とは違って洋風な内装だった。天井から吊るされているランプが、カウンターの奥に並んだ酒瓶を橙色に照らしている。


「悪いな。まだ準備中だ」


 カウンターの奥に居た、店主らしき男が低い声で言った。いかつい顔をした黒い肌の男。大木のような太い腕で、器用にグラスを磨いている。

 彰はその男の放つ排他的なオーラに思わず固まってしまった。


「ケイロン、怖がってるじゃない。あんた顔怖いんだからさぁ」


 そこへ話しかけてきたのは一人の女性。膝の上には赤い首輪をした黒猫を乗せている。彼女は首を傾げながら二人の顔を交互に眺めた。


「君たち。この店はまだ早いんじゃない?」

「いや、別に酒を飲みに来たわけじゃなくて……」

「冷やかしかな? 困るなぁ」

「そうじゃなくて! 表の看板見て来たんです!」


 彼女は「看板?」と呟くと、パンと手を叩いた。


「もしかして、アキラ君かな?」


 やはりアルフレッドは知っていたのだ。彰がこの店を訪れると。

 彰が微妙な笑顔で「はい」と答えると、黒猫が「ミャオ」と鳴いた。


◇◇◇


 彼女は「エリ」と名乗った。数年前に転移してきた日本人らしい。一方でケイロンと呼ばれていた男は、元からこの世界の住人なのだそうだ。


「この店はアルフレッドがくれたんだ。爺さんの残した金もあるから、食いっぱぐれることもないし。まぁ、感謝してるよ」


 地下へ続く階段を降りながら彼女は言った。

 この店は、エリとケイロンの二人と、ミャオの一匹で経営する酒場だ。夕方に近いというのに、店には一向に客が入る様子はない。それどころか、店が面する狭い路地には、ほとんど人が通らなかった。


「さ、着いたよ」


 気付くと、目の前に重厚な鉄扉があった。なんでも、店の地下にアルフレッドが残していった物が保管されているらしい。

 エリは扉のノブに手をかけると、「よいしょッ」と言って押し開ける。当たり前だが中は真っ暗だった。


「暗いよねぇ」


 エリは部屋のランプに火を移すと、綺麗に整頓された物置が灯りに照らし出された。


「それで、見せろって言われてるのはどれですか?」


 彰が尋ねると、彼女は部屋をぐるりと見回した。


「これ、全部」

「全部?」

「そう。全部」


 棚にに目を向ける。空き缶、ラベルの付いたワインの瓶、捻じ曲がったスプーン、果てはタバコの吸い殻まで。整頓されているが、置かれているものはゴミとしか思えないものばかりだ。


 元の世界で見たら、の話だが。


「なんで、この世界にあるんだ?」


 空き缶も、アルファベットのラベルが付いた瓶も、どれもこの世界では存在するはずのないものだ。フィルターの付いたタバコだって、この世界には存在しない。

 エリは呟いた。


「転移してくるのは、ヒトだけとは限らないでしょ。あの爺さん、そういうの集めてたんだ」


 エリによれば、壊れた腕時計、欠けたティーカップ、凹んだスプレー缶など、棚に並んでいる物はすべて転移してきた物ばかりらしい。なぜ集めているのか、と尋ねたところ、アルフレッドは一言「ホームシック」と答えたという。

 彰が少し懐かしそうに部屋を物色していると、壁にかけられた一枚の地図が目に入った。何の変哲もない、九州が描かれた地図だ。


「月島…………」


 しかし、その地図に書かれていたのは「月島」の文字。すると、それを見てエリが言った。


「その地図は転移してきたモノじゃないよ。アルフレッドが描かせたんだ。部下に海岸線を歩かせてね」

「…………え? どこを?」

「この島を、さ」


 しばらく固まる彰。咄嗟に理解が追いつかなかった。


「どう思う? アキラ君」


 エリは薄い笑みを浮かべる。


「…………もしかして、何か試されてる?」

「そう。ちょっと試してる」


 彰は改めて地図に目を落とす。

 地図は驚くほど正確に九州の形を描いていた。ただ、桜島が半島を繋いで大きな湖を形成していたりと、いくつか記憶と違う点がある。

 これが現在の月島だとするなら、可能性があるとすれば。


「タイムトラベル……とか?」

「さすが。話が早いね」


 エリは満足そうに笑った。

 考えてみれば、奇妙な点ばかりだった。東から昇る太陽。西へ沈む月。見慣れた動植物や、社会を形成し生きる人々。あまりにも共通点が多すぎる。


「私達は違う世界へ『空間的に』転移したんじゃなく、違う時代へ『時間的に』転移した。それが爺さんから預かってる伝言だよ」


 エリは棚から破れたカレンダーを取って彰に投げる。カレンダーの年号は二〇二五年。彰が転移したのは二〇二〇年だ。

 時間転移だと考えれば、確かに大抵のことには説明がつく。ただ、この世界の文明が現代日本と地続きだとするならば、どうしても説明できないことがあった。


「精霊は? 日本には居ないですよね」


 この世界には、魔法を使う際に「精霊」の手を借りるということだった。しかし、日本に精霊がいたという話は聞いたことがない。

 すると、エリは断言した。


「君のいう『精霊』ってのはいるよ。この世界にも、日本にも」

「日本にも?」

「うん。私は『見える』から」


 呆然として固まる彰を見て、彼女はおかしそうに笑った。


「どちらにしろ、君は『彼ら』が見えないんでしょ? それなら、日本にいたかどうかも分からないんじゃないかな」


 精霊や妖精の伝承は世界各地に存在する。幽霊やUMAも含めれば、そのような「人智を超えた存在」の伝説がない地域は存在しないだろう。その多くは「オカルト」という括りに入れられて現実には存在しないものとして扱われているが、それらが存在しないことを証明するのは不可能だ。かといって存在するとも限らないが、そのことに関して議論したところで、答えは見つからない。

 仮に日本でも精霊とやらが居て魔法が使えたとするならば、時間転移というのも辻褄が合う説明だ。


「それなら…………」


 彰は尋ねる。


「どうやって時間転移したのか、っていうのは?」

「それが分かれば教えてるよ」

「ですよね」


 時間転移だとしても、空間転移だとしても、どちらにせよ転移の方法が分からなければ意味がない。月島へ来たところで、やはり帰ることはできないのだ。

 ややテンションの下がった彰にエリは尋ねる。


「アキラ君は、もしも帰る方法が分かったら、すぐにでも帰るつもり?」


 彰は迷いながらも、「……まぁ、帰ると思います」と答える。すると、エリは少し驚いた顔で「あ、そうなんだ」と呟いた。


「エリさんは帰らないんですか?」

「帰らないよ」

「生まれた故郷とか、恋しくなったり…………、それこそホームシックになったりしないんですか?」


 エリは「無いね」と即答した。


「大事なのは『どこで産まれたか』じゃなくて、『誰と生きていくか』じゃない? 私、生まれつき『彼ら』が見えたからさ。あの世界だと魔女はどんな運命を辿るか知ってる?」

「…………火炙り」

「そう。わざわざ帰ってやる義理は無いね」


 火炙りというのは比喩だとしても、未知は敬遠されるのが世の常。精霊の存在が常識という世界の方が、彼女にとって生きやすいのだ。


「アキラ君もちゃんと決めておきなさい。誰と生きていきたいのか。彼女のためにもね」

「え? 彼女?」


 エリはそれに答えることなく部屋から出ると「さ、戻ろうか」と言って階段を上がっていってしまった。


◇◇◇


 店に戻ると、リリアはカウンターで猫を撫でながらケイロンと何やら話していた。彰が戻ってきたのに気付くと、途端に不安げな顔で尋ねる。


「それで……、帰れそうなの?」

「いや…………」


――アキラ君もどっちで生きるか、ちゃんと決めといた方が良いよ。彼女のためにもね。


 不意にエリの言葉が蘇った。

 日本に残した弟のため、帰らなければいけないのは自覚している。だが、もしも帰る方法があったなら、本当にこのまま帰ることができるだろうか。

 彰は答えた。


「帰る方法は無かったんだ。もう少し、旅に付き合ってくんない?」


 すると、リリアは少し嬉しそうに「仕方ないね」と笑った。


 できる訳がない。このまま彼女を一人置いて帰れるわけがない。なんの未練もなく「さよなら」を言うには、あまりに長い時間を過ごしすぎた。

 この世界とも、もはや無関係ではいられない。


 彰はエリとケイロンに礼を言うと、二人分の荷物を担ぎ上げた。この重さにもすっかり慣れてしまった。


「じゃ、俺たちもう行きます」


 窓から茜色の光が差し込んでいた。カウンターにいたケイロンは、グラスを傾けながら二人に尋ねる。


「聞いたが、アクレスって男を探してるんだってな」

「そうですけど?」

「彼の居場所なら分かるぞ」


 あまりに唐突に言われたので、彰もリリアも一瞬固まった。


「え?」

「いや。正確には、居場所を知ってる奴がもうすぐ来るはずだ」


 すると、その言葉の直後。それまで鳴ることの無かった店の扉がノックされた。

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