第70録 魔界を統べる者
ベルゼブブはマーレ港から少し離れた道端に足をつけた。
降ろしてもらったエリスはローブの裾を整えると、眉を釣吊り上げてベルゼブブに詰め寄る。
「なんて事してくれたの!あの町、歩きにくくなったじゃない!」
「知るかそんなモン。
それよりオレ様が動かなかったらお前、あのままブタ野郎の妻になってたんだぞ?」
「そ、それは困るけど……」
そのことを思い出したのか、少し顔を赤くするエリスにベルゼブブは追い打ちをかけるように言う。
「そもそもあいつも人間だろうが。なんで頭下げなきゃなんねぇんだよ」
「貴族の前では出しゃばっちゃいけないって
ルールがあるって言ったでしょう!」
「くだらねぇルールだな。そんなのを律儀に守ってるのかよ、人間は」
エリスの様子を見ても全く動じずにベルゼブブが言い放つ。
「仕方がないでしょう。貴族にお金を出してもらって国や町村が成り立っているんだから」
「王族と何が違うんだよ?」
「王族は、統治してるの。もちろんそれなりにお金を出して。でもそれだけじゃ管理できないから、貴族に根回しして協力して貰ってる」
「詳しいなお前……」
「母に教えてもらったから……。
割と大事なことだからおぼえておきなさいって」
「しっかりしてるんだか適当だかよくわからねぇな……」
エリスは何も返せなかった。
在りし日の母親との会話を思い出して、感傷に浸っていたからだ。
そのため会話が途切れて、風が木々を揺らす音や鳥のような甲高い鳴き声だけが響く。
しかし、その沈黙は無邪気な明るい声によって破られた。
「ねーねー、お姉さん魔法使い?ポーションって作れる?」
エリス達が振り返ると黒髪の少年がニコニコと笑みを浮かべている。
年は10前後だが右目は黄、左目は赤、と変わった目を持っていた。
エリスは驚きながらも身を屈めて少年に目線を合わせた。
「作れますけど……」
「1つちょーだい!お母さんが――」
その瞬間、ベルゼブブがエリスと少年の間に割って入った。
少し眉をつり上げて少年を睨んでいる。
いつもと違うベルゼブブに、エリスは口論になったことも忘れて声をかけた。
「ど、どうしたの?」
「……………なんでお前がここにいるんだ」
エリスの質問を無視してベルゼブブが少年に尋ねる。
少年はキョトンとして瞬きを繰り返した。
「あれ?お兄さんとは初めて会うんだけど?」
「ウソつけ!何が初めてだ!
オレ様の問いに答えろサタン!」
ベルゼブブの言葉を聞いた瞬間、少年は目を閉じてため息を吐く。次に目を開くと瞳孔が細く鋭い目つきになっていた。
その直後、穏やかだった空気が一気に張り詰め、遠くで小鳥がバサバサと逃げるように飛び立つ。
エリス達は全身に圧がかかったような感覚に陥った。
「え……」
「そう噛みつくなベルゼブブ。何もせん。余の気まぐれだ」
青年のような低く威圧のある声に、エリスは瞬きも忘れて彼を見つめる。
「気まぐれだと!?気まぐれで地上に出てくるようなヤツじゃねぇだろ、お前は!」
少年の姿をしたサタンはベルゼブブの言葉を余裕の笑みを浮かべて聞いている。
「フン、半々だ。本当に気まぐれで来ることもあるぞ?」
「………………………」
黙り込んだベルゼブブの袖をエリスが軽く引っ張った。
「なんだよ……」
「ねぇ、サタンってあのサタン?」
「あのじゃなかったら、どのサタンだよ!
サタンなんざ1人しかいねぇ!」
サタンは2人のやり取りを面白そうに眺めている。
その顔はまるで品定めをしているかのようかのようだった。
「貴様がベルゼブブと「契約」を結んでいる人間か?
若いな」
「「契約」を結んだのは私の父です。私は願いの対象なだけで……」
「ほぅ……」
サタンは興味深そうに呟くと一歩前に踏み出した。
すかさずベルゼブブが道を塞ぐ。
「随分と気に入っているようだな、ベルゼブブ?」
「うるせぇ。何するつもりだ」
「なに、この人間がどのような経緯を過ごしてきたか
見ようとしただけよ。
パッと見だが、かなり壮絶なようだな?」
「…………………」
エリスは困惑しながらも無意識にサタンを睨んでいた。
魔法を使用した痕跡がないのに一通りの過去を視られたことに嫌悪感を示している。
サタンはエリスの視線に気づいたが、むしろ挑発するように笑った。
「人間まで余を睨むな。警戒されても困る。
理由を言わないと帰してもらえそうにないからな。教えてやる。
余が地上に出てきたのはお前達のことを見ようと思ったからだ。ダル男から聞いてな。興味がわいた」
ダル男とはアザゼルのことのようだ。
ベルゼブブは少しだけ眉を上げて、すぐに渋い顔つきに戻った。
「魔力を辿ってきたのか?」
「ああ。お前は強いからな、すぐに分かる。
それに隣の人間もな。
余やベルゼブブほどではないが、人間にしては強い」
「……何かしにきたわけじゃねぇんだな?」
「最初からそう言っておろうが、たわけ。
余に向かって来ないだけマシだが随分警戒しておるな?
フン、聞いていたとおり情が深くなっておる」
「部下1号め……何言いやがった……」
ベルゼブブは軽くサタンを睨みながらエリスの隣に立った。
しかし完全に警戒心は解いておらず、すぐに魔法を放てるように右手を構えている。
サタンはその様子を見て呆れたようにため息を吐いた。
「ベルゼブブ、そう警戒されても困る。余はお前の敵ではない。
数百年前に1度ケンカしただけだろう。それ以降お前とぶつかったか?」
「いや……」
「お前と何かを争っているわけでもない。
争っても不利益しかないぞ」
「それもそうだな……すまん……」
「フン、素直に謝るとは珍しいな。
そのうちラグナロクでも起こるのではないか?」
「オレ様が素直に謝っただけでそうなるなら、世界は何回滅びることになるんだよ……」
それからエリスを見てフッと口角を上げる。
「それにしても貴様、持っているな」
「持っている……ですか?」
「いや、こちらの話だ。
ガンコモノと常に共にあれば、そうなるだろうな。
せいぜい足掻いて生き抜いてみろ。貴様ぐらいの人間がいないとつまらん」
「は、はぁ……」
サタンはエリスを見上げながら、ゆっくりと懐から一枚の紙を取り出し、
それを風に乗せてエリスの手元へと送る。
古びた羊皮紙のようなそれには、見たことのない文字と魔法陣が描かれていた。
「余を喚びたければ、これを使うがいい。
もっとも、使いこなせるとは限らんがな」
「……なぜ私に?」
「さあな。気まぐれだと言っておこう。
だが、足掻く者には興味がある。それだけだ」
サタンはそう呟いて黒い霧となって姿を消した。
ベルゼブブは大きなため息をつくと、エリスに詰め寄る。
「お前、ソレを使おうとするんじゃねぇぞ!」
「これって何?初めて見るんだけど……」
「悪魔の召喚手順が書かれた羊皮紙だよ!見込みのあるヤツにしか渡さねぇ決まりでな!お前はアイツに期待されちまったんだよ!」
「嘘でしょう……?」
エリスは震える手で羊皮紙を見つめた。
確かにテオドールではあるが既にベルゼブブがいるため、悪魔に頼ろうという考えすらなかったからだ。
「でも、私は「契約」を結べるの?」
「結べる。オレ様はお前の父親と「契約」を結んだんだからな。
お前は「未契約」状態だ。……まさか結ぶ気じゃねぇだろうな?」
「そんな考えはない。
悪魔を召喚するのって魔力を消費するのよね?
しかも相手はサタン。とてもじゃないけど喚べる気もしないし」
「……なら、いい」
どこか安心したように言うベルゼブブを見て、エリスは首を傾げた。
それからふと考える。
もしかして私がほかの悪魔と「契約」を結ぶのが気に食わないのかしらと。
エリスは悩んだ末、マーレ港に戻ることにした。
やはりロイトとの約束が心に引っかかっているからだ。
その道中、エリスは思い出したように尋ねる。
「ねえ、サタンとのケンカの原因って何だったの?」
「……を……どっちにするか」
「え?」
「焼き菓子の付け合わせを白蜜と黃蜜どっちにするかつってんだろ!
2度も言わせんじゃねぇ!」
エリスは開いた口が塞がらなくなった。
悪魔のトップに近い2人がそんな理由でケンカをしたという事が信じられない、顔だ。
「……嘘よね?」
「嘘なわけねぇだろ!マジの話だ!
お前からすればくだらねぇ事だろうけどな!」
普段くだらないと言って貶すことが多いベルゼブブが、
焼き菓子の付け合わせでサタンとケンカした。
「……くだらないわね」
「そうだよ!言いたきゃ何度でも言え!」
照れ隠しのように叫ぶベルゼブブに対してエリスは小さく肩をすくめた。
第38録でベルゼブブがサタンについて少し言及しています




