第42録 万事休す
「わぁっ!すごい!!本当に空を飛んでいます!!」
「手を離さないでください。落ちますから」
片手を繋いではしゃいでいるイレーネをエリスは複雑な表情で眺める。
エリスの予感は当たっており、イレーネは魔法を使って海を渡ると言い出したのだ。ベルゼブブは周囲を警戒しながら少し後方からついてきていた。
「ご、ごめんなさい。魔法をかけてもらうの初めてで、つい……」
「それは構わないのですが……速度が」
この魔法は使用者の感覚に委ねられており、駆けるように進むこともできれば、ゆっくりと慎重に歩くこともできる。ただし、速度を出しすぎるとバランスを崩しやすい。
魔法をかけ慣れていないイレーネに走ることを強要してもバランスがとれずに落ちてしまうだろう。
いつグラドが気づいて追ってくるかわからないため、エリスは焦燥感を覚え、落ち着かない気持ちで前を見つめた。
「抱えて行った方が早いかも」
「えぇっ!?それは……恥ずかしいです。でも急がないといけないんですよね」
イレーネは自分が抱えられた姿を想像したのか少し顔を赤くする。
少しの間唸りながら歩いていたが、ふと顔を上げると何かを思いついたように目を輝かせる。
「もしかして……慣れれば早く走れるんですね!?」
「え?」
イレーネは元気よく答えるとエリスからの注意も忘れて走り出した。エリスは慌てて歩幅を合わせ、手を離さないようにしっかりと握る。
「た、確かに急いではいますが、気をつけてください!」
「ごめんなさい!エリスさん!すぐ行動しなきゃと思って」
突如、後方から火球が赤い光を放ちながら襲いかかってくる。エリスは咄嗟にイレーネを庇うように立ったが、当たる直前に紫色のバリアに弾かれて消滅した。驚いたエリスが周囲を確認すると、ベルゼブブが呆れ顔で右手を構えている。
「守るのはいいが、バリアぐらい張れよ」
「つい、先に体が動いて……」
「フン、お前がケガしたら余計面倒だろうが!
さっさとい行け!アイツはもうこっちを見てるぞ!」
「でも……」
「ボヤボヤすんな!アイツの方が速ぇ!《爆発矢》!!」
ベルゼブブが呪文を唱えると彼の周辺に複数の赤い矢が現れ、光を放ちながら一直線に飛んでいった。それらは遠方で次々と爆発し、あまりの凄まじさにイレーネが悲鳴を上げる。
「きゃー!?爆発しました!?」
「相手も強いのでバリアで防がせていると思いますよ」
エリスはベルゼブブに向き直ると真剣な表情で口を開く。
「相手はあなたに任せるけど、2つ約束して!」
「あ?」
「相手の命は取らないで!それと挑発にも乗らないで!」
「ケッ、オレ様に命令しやがって。まぁ、頭の片隅に入れといてやる」
ベルゼブブは不快感を示しながら呟くとエリス達とは逆方向に飛んでいった。
やがて海岸に降り立った。イレーネは白い砂浜を一回りすると笑顔を浮かべた。
「あ、エベロス周辺の海岸です!間違いあり――」
突然、背後で微かに砂の擦れる音がした。イレーネが短い悲鳴を上げた次の瞬間、彼女の首元に鋭い短剣が突きつけられていた。それを握るジョルジュは冷ややかな目でエリスを凝視している。ジョルジュは一時的に魔法で姿を消していたのだ。
「あまりこういう事はやりたくないんだけどね」
「いつの間に……」
エリスが歯を食いしばる。集落でグラドしか確認できなかった時にもっと警戒しておくべきだった。すでにジョルジュは別行動をとっていたのだ。
「マーレ港で地図を見せてもらって、ドワーフの集落とエベロス帝国が海を隔てていることに気づいたんだ。ある程度予想はついたけど確信はなかったんだ。まぁ、運がよかったよ。
さて、私が言いたいことはわかるね?テオドール」
エリスは無言でジョルジュを睨むことしかできなかった。イレーネに短剣が突きつけられていなければ打開策はあったかもしれないが、エリスが魔法を唱えようと呟いた瞬間ジョルジュは力を込めて右手を引くだろう。
「…………。先に彼女を解放してください」
「君を確保するまでは、解放するわけにはいかないね」
エリスは悔しさからか睨みつけながらジョルジュに近づく。
ジョルジュはイレーネを解放すると同時に近づいてきたエリスのみぞおちに強力な一撃をくらわせた。エリスは声を上げる間もなく崩れ落ちる。
「エリスさん!?」
「私もあまり手荒なことはしたくないんだ。それに見たところ君は武器を持っていないみたいだけど、私と戦うのかい?」
ジョルジュを睨んでいたイレーネは正論に返す言葉を失い、俯いた。その間にジョルジュが静かに呟くと、エリスの周囲に光の鎖が浮かび上がる。それは瞬く間に彼女の手足に巻き付き、動きを封じた。
それからエリスを背負うとイレーネを見下ろす。
「君はエベロス帝国の者かい?」
「は、はい……」
「なら、門番に伝えておいてもらえる?我々は近々攻め込む、と」
言い終わるとジョルジュは一度も振り返らずにその場から立ち去った。
イレーネは状況が飲み込めずにしばらく呆然と座り込んでいたが、ハッと目を見開いて立ち上がる。
「た、大変っ!エリスさんが……お兄様達に知らせなきゃ!」
半泣きになりながら故郷へ走りだした。