NMプール理論
時間は過去から未来へ、ただ一方向に流れている、という訳ではない。
現在は常識として受け入れられている時空観だが、それを最初に発見したのは、老人ホームで働くひとりの男だった。彼はホームの居住者数名の世話を担当しており、その日も、ある年老いた女性と共に、近所の公園を散歩していた。小さな池に、夕焼けが美しく映えていた。ゆっくりと草木や空を見て歩いていた女性はふと立ち止まり、その池の光に目を凝らした。男は少し離れたところから、さりげなくその様子を見ていた。女性は昔からこの近所に住んでおり、今まさに少女時代の思い出を回顧しているのだということを、男は知っていた。赤と橙にきらめく水面に、女性は唇を動かす。昔、この水辺で起きた出来事を脳裏に思い描きながら、その主役になりきっている。
それを見ていたとき、まったくの唐突に、男は時空の流れを理解した。女性は今、現在を生きてはいない。少女だった頃の時空間にいるのだ。そう、時空は客観的な一方向の流れであると同時に、主観的には遡行可能な、逆ベクトルに向いても流れ得る、言うなれば流れのある川ではなく、一定の広がりを持ったプールのレーンのようなものだったのだ。
「NM(Nメーター)プール理論」と名付けられたこの時空間に関する理論は、この男がそれを発見して数分後に自身の出身校に掛けた電話の録音が初出とされる。彼の興奮した声は事務の応答を綺麗に無視して、ひと息で一篇の論文を紡ぎ上げてしまったのだ。学生時代に時空論理学を専攻し、院に進んで博士号まで取ったというのに勤め先が見つからず、仕方なく就いた介護職の現場での新発見だった。感極まった男が漏らした嗚咽はしっかり録音されており、今でも学問に従事する世界中の人々の心の支えとして、再生回数記録を更新し続けている。




