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バトン、もしくはお守り
この部屋を出て行くとき、何かを残して行っておくれ。
最初に鍵を渡してくれた下宿の管理人が、そう言っていたのを思い出した。明日から別の地で新生活を送ろうという夜にだ。既に荷造りは済ませてしまっていたから、残せる物なんて思いつかなかった。けれど、その言葉を一度思い出してしまったら、もう忘れてしまったことにはできなかった。
この部屋には新卒のときからお世話になった。人知れず流した涙も、小さな声でこぼした愚痴も、全てこの部屋だけは知っている。
荷造りに使った黒マジックを取り上げて、備え付けの家具の裏面に「ありがとう」と書き込む。キャップを嵌めてから、同じ言葉が沢山残されていることに気がついた。