さよならのタイミング
さよならのタイミングが分からない。
子供の頃、友だちが分かれ道で背を向けて去っていくのを、その背中が見えなくなるまで見つめていたものだった。一体みんなはいつ、さよならをしているんだろう。ただの挨拶では、私には区切りがつかない。
そんなわけで、さよならのタイミングを掴めなかったモノが、私の家にはたくさんある。幼稚園時代に履いていた靴下(片方だけ)、小学校の自由研究ひと揃い、中学生の頃の交換ノート、高校で大好きだった先生からもらった六角鉛筆。大学からはひとり暮らしを始めたので、ますますモノが増えた。初めて自分のお金で買った可愛いカーテンなんか、もうすっかり日に褪せてしまっているのに、まだしまってある。
片付けられない訳でも、ゴミを捨てられない訳でもないので、そんなに散らかってはいないのだけど、そういうモノたちが所狭しと並んでいる部屋は、流石にどうなんだろう。待っていてもタイミングが来ないのなら、自分で作るしかないのかもしれない。
そこで一念発起して、業者に電話をした。モノをかき集め、見積もりをお願いした。
「本当にいいんですか」
青いツナギの男は並べたモノを見るなり、そう言った。
「ええ、いいんです」
「本当に? あなたは、これらの価値を正しく理解していますか」
価値なんて、ないに等しいガラクタばかりだ。それなのにさよならのタイミングを掴めないから、こうして頼んでいるのだ。
男はそれらを全てトラックに積み込んで走り去った。お金を払っていないことに気がついたのは、トラックが見えなくなってからだった。
部屋はすっきりした。どこを見ても、何かを思い出すということがなくなった。二、三日の間は清々しかった。
けれど四日目に、自分はとんでもないことをしたのだと思えてきた。そもそも、何とでもさよならしなければいけない訳ではなかったのだ。
きれいな部屋の真ん中で泣いていると、チャイムが鳴った。泣きながらドアを開けると、そこには大きな段ボール箱が置いてあった。荷札には四日前に頼んだ業者の名前と、その下に「価値を理解できたでしょう」という文字。
箱の中には、もう処分されてしまったと思っていたモノが詰まっていた。何ひとつ欠けることなく。
そんなわけで私の家には、もう何十年も鎮座しているモノがたくさんある。彼らとさよならするタイミングは、きっと一生こないだろう。