第7-1話 聖女、メンヘラ化
ひなは入ってきた直後、キラキラと黒い瞳を輝かせていた。けれど、アイザックとコーデリアが互いの手を固く握りしめているのに気づいた瞬間、般若のように険しい表情になる。
「……アイザックさま? 何を、しているんですか?」
その声は今までの彼女からは考えられないほど低く冷たい。まるで夫の浮気現場に乗り込んできた本妻のようだ。
(って殿下の婚約者は私だから、責められる理由は全くないんですけれどね!?)
前世では向こうの立場が圧倒的に上で、ついでに現世でも向こうの方が上なせいで(なんてったって聖女さま)強気に出られないのが悲しい。しかしコーデリアとて、悪いことはしていない。……はずだ。
「聖女殿……」
コーデリアにだけ聞こえる小さな声で呟いてアイザックが立ち上り、コーデリアとひなの間に立つ。まるで庇ってくれているようだと感じるのは、思い上がりだろうか。
「アイザックさま。この人と婚約破棄するって、言っていましたよね?」
そう言ったひなの顔は引きつっている。
「聖女殿。……すまないが、やはり私は自分の気持ちに嘘をつくことはできない。彼女と婚約破棄は――しない」
「嘘っ! なんで!?」
動揺して叫んだひなは、けれどすぐに静かになった。そしてじっとりとした目でアイザックを見つめる。
「……国が滅んだとしても、ですか? 前も言いましたけど、結婚してくれないなら聖獣に頼んで国を滅ぼしてもいいんです。そうしたら、アイザックさまが国を滅ぼす原因になっちゃうんですよ?」
「国を滅ぼすのは私ではない。原因は私でも、実行するのは貴女だ。聖女殿」
そう言い放ったアイザックの瞳は、凪いだ水面のように落ち着いている。ひく、とひなの顔が引きつった。
「聖女殿、どうか冷静になって考えてほしい。国を滅ぼしたとしても貴女には何の利点もない。それどころか災厄扱いされ、人々から背を向けられることになる。私は貴女にそんな存在になって欲しくない」
どうやら彼は、説得を試みることにしたらしい。コーデリアは固唾を呑んで行方を見守ることにした。恋愛経験がなくてもわかる。この状況では、どう考えても下手に口出して刺激しない方がいい。
「なんで……なんでそんなこと言うの!? アイザックさまがひなと結婚してくれれば、ひなだってそんなことしなくていいし、みんな幸せになれるのに!」
ひなの口調から敬語が消える。そういう時は本当にイライラしている証拠だった。前世でのひなの癖を思い出し、コーデリアはハラハラしながら成り行きを見守った。
「……貴女の気持ちは嬉しいが、私は彼女と共に歩んでいきたいんだ」
そう言った途端、ひながギロッとコーデリアをにらんだ。恐ろしい瞳だった。
同時に、コーデリアはその瞳を知っていた。まだ前世のひなと一緒に行動していた時、よく他の女の子がそういう目でひなを見ていたから。
――それは嫉妬の目。
(まさかひながそんな目をするなんて……)
ひなはいつも嫉妬される側だった。ニコッと微笑むだけで欲しいものを手に入れ、賞賛され、求められる人生。嫉妬で靴を隠されても、先生(もちろん男)を味方につけ、次の日にはもっといい靴を手に入れてケロッとしているような、そういう世界の住人。
そんなひなが、聖女らしからぬ嫉妬と憎悪を浮かべてコーデリアを睨んでいる。
(そもそも男性に振られるひななんてあり得なかったのに。……もう、私の知っているひなとは違う人なのかもしれない)
前世の記憶を持ちながら今の人生を歩んでいるのはコーデリアであり、決して加奈ではない。ひなもまだ自分でひなと名乗っているものの、今はエルリーナであり、以前のひなとは違うのかもしれない。
やがてひなはコーデリアから視線を外すと、悲しそうな顔で笑った。
「……大丈夫。大丈夫だよ。“アイザックさま”は、聖女が望めば最後には来てくれるって、ひな知ってるから……」
原作のシナリオのことを言っているのだろうか。今の状況を受け入れるつもりは全くないらしい。
「見ててください、アイザックさま。冷静にならなきゃいけないのはひなじゃなくてアイザックさまなんだってこと、きっとわかるようになりますから」
そう言って立ち去ったひなの目は、怒っているようにも、泣きそうなようにも見えた。




