TS美少女先輩と後輩ちゃん〜温泉デートの巻〜
「めっちゃつらい、幼女ボディつらすぎる」
最初はノリノリでお寺の階段を上がっていた内藤さんが音を上げた。
「もう少し頑張ってくださいよ」
「てか、ここ千段あるんだろ? もう半分は終わってるよな?」
「さっきから数えてましたけど、まだ二百三十五ですね」
「え〜……」
「もう死ぬ」と言いながらも私の数段先を行く内藤さんは歩み続けた。
なんだかんだで内藤さんは元気だなと少し感心する。
この長い石段のまだ三分の一も終わっていないと思うと額に汗がじんわりと染みた。
夏の終わりが近づき涼しくはなってきたとはいえども残暑は厳しく、しばらく家に引きこもっていた私にこの運動量はなかなかこたえた。
「よっしゃ着いたわ。菊池遅えぞ」
最後の方になった途端早足に階段を駆け上った先輩が私を呼んだ。
「上の方はちょっと涼しいな」
「……そうですね」
息も絶え絶えな私と違って内藤さんはケロっとしている。
これも子どもの体になったがゆえの体力なのだろうか。
「しっかし、この髪マジで暑いし、うっとうしいわ」
内藤さんは背中まで伸びた髪の束を掴みながら言った。
「切らないんですか?」
「金ないし」
そういえばそうだった。
正確には、本当はご両親から色々入用だろうからと、お金をもらっていたのに内藤さんは散財してしまったのだった。
今内藤さんが着ている黒いタンクトップとカーキの半ズボンも、私が見かねて妹のお下がりを実家からもらってきて寄贈したものだ。
「くくりましょうか?」
「うん? いいの?」
「はい」
こちらに背を向けた内藤さんの髪を予備のヘアゴムで結ぶ。
直射日光で熱くなった内藤さんの黒髪は、なんのケアもしていないだろうに柔らかくてサラサラしていた。
この一ヶ月、内藤さんが今の姿になってから何度か触ったけれど、未だに少しドキドキしてしまう。
「ポニーテールで大丈夫でした?」
「うん、なんでもいいわ。ありがとう」
前に内藤さんが飲み会でポニーテールが好きだと言っていたから、私は短かった髪を少し伸ばした。
内藤さんがそのことに気がついているかはわからない。
自分がする側になった今でもポニーテールが好きなのは変わらないのだろうか。
「なにをお願いしたんですか?」
「あ、なんもしてねえわ。五十円納め損だな」
お参りを終えて、賽銭箱の前から立ち去ろうとしていた先輩はきびすを返すと、「百万くらい欲しい」と叫んだ。
内藤さんの澄んだ声はこだまとなって戻ってきた。
このお寺自体が崖の上にあって、周りもちょっとした山のようになっているのだ。
それがおかしくて二人で少し笑った。
「五十円で百万ですか?」
「俺の五十円は重いからな。菊池はなんかお願いしたの?」
「いや、特には」
本当は「ずっとこんな感じで過ごせますように」だったけれど、ちょっとクサくて言えなかった。
「写真でも撮りますか?」
「おう、撮っときな」
「……そこは一緒に写りましょうよ」
「うん? いいけど」
水墨画で見るような断崖絶壁が写るようにスマホで自撮りした。
「なんで真顔なんですか?」
「お前もじゃん」
スマホの画面には二人して真顔の私たちが表示されていた。
せっかくだからと、リア充染みたことをしてみたけれど、修練が足りないようだ。
もう一度撮り直したけれど、今度は変顔しているみたいになってしまった。
「寺と温泉しかねえんだな」
「そうですね」
「まあ京都とかじゃあるまいし、この辺りの観光地なんてみんなこんなんだけど」
土産物屋の前で強引に店員のおばさんに押しつけられた温泉まんじゅうを頬張りながら内藤さんは言った。
内藤さんが帰省用に使った十八きっぷが二回分余ったから、使い切りたいという理由でここに来たのだった。
片道一時間半で行ける観光地として、私たちが通う大学のある街では定番だけれど、二人とも来るのは初めてだ。
九月の平日であるせいか、周りを歩くのは暇を持て余した老人か私たちのような学生がちらほらいるくらいだった。
「温泉でも入るか?」
「う〜ん、そうしますかね」
「こんな暑いのに温泉か」とは思ったけれど、他にやることもなかったのでネットで評判がよかったスーパー銭湯のような大きめの温泉施設に入った。
「子供料金……なんですね」
「そうで〜す。私十歳で〜す。お姉ちゃんと遊びに来ましたぁ」
「うわぁ……」
なんのためらいもなく内藤さんは券売機の「子ども 五百円」を押した。
ドン引きする私をよそに内藤さんは平然と受付でタオルを受け取った。
「温泉久しぶりだわ」
「内藤さん、そっちじゃないですよ!」
男と書かれた青いのれんをくぐろうとした内藤さんの腕を慌てて掴んだ。
「あ、そっか。でもなんか悪いことしてるみたいだな」
「むしろその体で男湯入る方が迷惑でしょ」
「でも小さい女の子とか男湯入るじゃん?」
「内藤さんくらいだとちょっと微妙だと思いますよ。というかそんなに男湯入りたいんですか?」
「そういうわけじゃねえけど、なんかな……」
少し渋りながらも内藤さんは私と一緒に赤いのれんをくぐった。
「他に客いねえなら安心だわ」
時期の関係か更衣室の脱衣かごは全て空だった。
内藤さんはささっと服を脱ぐと風呂場に向かった。
かごに雑に突っこまれた内藤さんの服を畳んであげようか迷ったけれど、さすがにお節介がすぎるような気がしてやめた。
「え、というか……」
「なに当たり前のように内藤さんと裸のつき合いをしようとしてるんだ」と、今更になって気がついた。
暑さで頭がボケていたのかもしれない。
「先入ってるわ」
私が固まっている間に、ガラス戸の向こう側へ内藤さんの白い背中は消えた。
女湯に入ることに抵抗を感じていたのに私と一緒に風呂に入るのはよいのだろうか。
考えてみると基準がよくわからなかった。
私を異性と見なしていないということだろうか。
今となってはそもそも異性と言えるのか難しいところだが。
仮にあちらが私をなんとも思ってないとしても、私は……。
いや、そんなことを今考えても仕方がない。。
どうしても緊張はするけれど、ここまで来て入らないというわけにもいかないだろう。
変なことを考えずに温泉を楽しもう
「遅いじゃん」
「ああ、はい」
私が引き戸を開けると、内藤さんはほとんど体を洗い終えたところだった。
濡れた髪の毛がぴとりと張りついた背中は華奢で、目の前にするととても小さく見えた。
一月前までは私より二回りも大きかったのに。
偶然、今の私と内藤さんの身長差は大小は逆転したが概ね前と同じだ。
目の前の小学生くらいにしか見えない女の子があの内藤さんなのかと思うと、改めて奇妙な感じがした。
「これくらいの温度が一番だな」
「そうですね」
二つある壺湯のうち、赤い方に内藤さんが、青い方に私が浸かっている。
内藤さんと裸で顔を合わせるのが気まずくて、しばらくは内湯に一人で入っていたけれど、熱さがこもってつらくなったので外に出た。
壺湯ならそこまでお互いの体を見ないで済む。
そう思っていたが……。
「なあ、これどう思う?」
「はい?」
私が内藤さんの方に振り向いた。
これ、と内藤さんが指差していたものはピンク色だった。
「どうって、なにをですか?」
「乳首」
「え……きれいなピンクですね……?」
「どう思う?」と聞かれたので、思った通りに答えてしまった。
「あ?」
内藤さんは一瞬きょとんとしたが、しばらくすると大きな声で笑った。
「いや、まあそうなんだけどさ……ウケるわ」
「なんなんですか!」
「質問が悪かったよ。ほらさ、ちょっと膨らんでるように見えない?」
改めて見ると、確かに僅かに膨らんでいるように見えた。
「……そうですね」
「ブラとかつけないといけないやつ?」
「まだ大丈夫じゃないですか? 私がそんな感じだった時はそういうキッズ向けのキャミソールみたいなの着たりしてましたね。というかですね……」
当たり前のように相談にのってしまったが、「なるほど」と頷いている内藤さんに言いたいことがいくつかある。
「なんで私に聞くんですか?」
「え? う〜ん、なんか頼りになるから、かな?」
「頼りに……」
「うん、めっちゃ助かってる」
「頼りにしてもらってるのは……嬉しいんですけれど……」
面と向かってそう伝えられると少しむずがゆい。
それでも、言わないといけないことがある。
視線を合わせるのも少し恥ずかしいけれど、私は内藤さんの方を真っすぐ見つめた。
「そのですね。内藤さんは恥ずかしくないんですか?」
「なにを?」
「私に体を見られたりするの、ですよ!」
「え、まあ……」と言いながら、内藤さんは顎に指をあてた。
「だって、しょっぱなに全部見せてるし今更じゃん」
夏休みが始まったばかりの一月前のあの日、内藤さんが今の姿になって最初に連絡したのは私だった。
「ちょっとウチ来てくれない」といきなり私を内藤さんのアパートに呼び出したのだった。
部屋に着くと、そこには見知らぬ美少女がいた。
その女の子が内藤さん本人ではあったのだけれど、「俺が幻覚見てるだけかもしれないから」と言う内藤さんに、状況を飲み込めないままボディチェックを手伝わされた。
確かにその時に内藤さんの体を隅々まで見せられ触らされているけれど……。
「でも考えてみれば、俺は男だし……嫌だよな、ごめんな」
「嫌とかじゃないんですけど……」
内藤さんが私の前で無防備な姿を見せることが嫌なわけではない。
それよりも……。
「ちょっと恥ずかしいというか……落ち着かないというか……」
内藤さんの裸を見ると、女の子なのにドキドキする。
それは、内藤さんが女の子である以前に内藤さんであるからなのだろうか。
あるいは、内藤さんが今の姿になってしまったからこそこんな気持ちになるのだろうか。
自分でもよくわからない。
「いや、マジでごめん。先に出るわ」
「いえ、全然嫌とかじゃなくて。むしろ……あの……」
内藤さんのことを迷惑だなんて一度だって思ったことはない。
そう伝えたかったけれど、うまい言葉がなかなか浮かばない。
「もうちょっと……ゆっくり浸かってから出ましょうよ」
「え……あ、うん」
少し気まずくなってしまってしばらく会話は途絶えた。
肩までしっかりお湯に浸かった内藤さんの顔はお湯のせいか少し赤くなっていた。
「風呂上がりはビールだな」
温泉を出るとちょうどよい時間だったので、同じ施設にあるレストランに入った。
この辺りの名物らしいカツ丼と地ビールを内藤さんは注文した。
小学生くらいにしか見えない女の子がビールを注文したから店員さんは冗談かと思ったようだけれど、内藤さんが免許証を見せるとギョッとしながらも伝票に書き込んだ。
「子ども料金で入ったのにビール飲むんですね」
「体は子ども、味覚は大人ってね。というかこのビールうまいな。あとで買おうぜ」
内藤さんの飲みっぷりを見ると飲めない私もちょっと飲みたいなと思ってしまう。
「そういえば、お酒って大丈夫なんですか?」
「医者からダメとは言われてないけど、体質変わってるから気をつけろとか言ってたかな。まあたまにはいいんじゃね」
内藤さんのアパートに呼び出されたあと、面倒くさいと渋る内藤さんを説得して私は病院まで付き添った。
それから内藤さんのご家族がこっちの方まで来たり大規模な検査をしたりと大騒ぎにはなったけれど、性別と姿形が変わるという異常事態を除けば健康状態に問題がなかったので、三日で内藤さんは退院した。
急性性転換症という珍しい病気だった。
未知な部分が多く治療法も存在しないそうだ。
「気をつけろってどういうことですか?」
「前より弱くなっているかもとか、まだこの体が成長するかもしれないとか色々言ってたな」
「大丈夫なんですか、それ?」
「大丈夫でしょ。そういえば、この体になってから飲むの初めてだ」
「え、やめましょうよ」
「やばくなったら菊池に面倒見てもらうから」
「やめてくださいよ」
ゴクゴクと喉を鳴らしながら内藤さんはビールを飲み干した。
「食ったわ」
内藤さんはそれなりに量の多いカツ丼を平らげた。
あの小柄にどう入るのだろうかと不思議に思ったが、さすがに満腹のようだ。
「眠くなってきた」
「子どもですか」
「子どもだし」
内藤さんは大あくびをした。
本当にその場で寝そうだった。
「酔ってます?」
「……酔ってない」
内藤さんの顔はほんのり赤くなっていた。
前はいくら飲んでも酔わなかったのに体質が変わったのだろう。
「ほら、休憩室ですよ」
「うん?」
ぼんやりとした内藤さんの手を引いて休憩室まで連れて来た。
うとうとしながら歩く内藤さんは子どもみたいでかわいいと思ったけれど、実際はただの酔っ払いの成人男性だと考えると、それはそれで面白みがあった。
「う〜ん」
内藤さんは休憩室の畳の床に寝転んだ。
室内はほどほどにクーラーが効いていて心地よい。
ここでしばらく昼寝をするのも悪くないかもしれない。
「ふぁああ……」
実家に帰省したとき以来の久々の畳が気持ちよくて大あくびをしてしまった。
内藤さんはもうスースーと寝息を立てているし、他に誰もいないから気にする必要もなかったけれど。
「菊池ぃ」
一時間くらい寝て、お土産でも見たら帰ろうかな、とぼんやり考えながらスマホの目覚ましをセットしていたら、いつの間にか内藤さんがすぐ隣に来ていた。
「な、なんですか?」
私の顔を下から覗き込む内藤さんは真剣な表情をしていて、私も少し緊張した。
「膝枕してくれない」
「え、あ、はい……?」
正座になって膝を差し出すとそこに内藤さんが頭を置いた。
「これが膝枕か」
内藤さんは満足げに言った。
勢いに流されてなにかすごいことになっている気がする。
思わず周りを見渡したけれど、やはり私たち以外には誰もいなかった。
先輩の息づかいとエアコンが動く静かな音だけが聞こえた。
「菊池さ」
内藤さんの声に私は視線を落とした。
「……はい」
「いつもありがとな。世話ばっかかけて」
どういうわけだか、内藤さんは突然そんなことを言った。
確かに、女の子になってからの内藤さんにはいつもヒヤヒヤさせられている。
それがわざとなのか天然なのかはわからないけれど。
「内藤さんにはいっぱいお世話になってますし」
中高六年間ほとんど運動してこなかったのに、なんとなく登山サークルに入ってしまった私の面倒を一番見てくれたのは内藤さんだった。
山行中は私がバテないようにいつも気をつかってくれていたし、私が体力をつけるために自主練をしたいと言えばつきあってくれた。
人見知りで体力のない私がサークルでやっていけるようになったのは内藤さんのおかげといっても過言ではない。
「こちらこそありがとうございます」
こんな形ではあるけれど、内藤さんの力になれるのは嬉しかった。
「今だから言うけどさ、下心あったんだよな。菊池かわいいし」
内藤さんは普段こういうことは言わない。
だから、きっとこの「かわいい」は本気で言っているのだろう。
かわいい……。
冷静ぶって分析じみたことをしたけれど、内藤さんのその一言は大いに私の心を揺さぶった。
「かわいいって……」
「いや菊池はかわいいよ実際」
真顔でほめられるとなおさら恥ずかしい。
頬が急速に熱くなっていくのを感じた。
「ウチのサークルの男子はみんな童貞だからそういうこと言わないんだよ。女の子にそういうこと言うのって難しいのよ、我々は」
内藤さんはため息をついた。
「いい感じの先輩になれれば下からモテるんじゃねって思ってさ、まあまあ頑張ったつもりなんだけど」
「な、内藤さんはかっこいいですよ」
私の気持ちをかき乱した内藤さんに、反撃したくなってそう言ったが、言ってから恥ずかしさがこみ上げてきた。
「お世辞でもありがとう」
「お、お世辞じゃないですよ! 二年生はみんな内藤さんのこと尊敬してますし、それに内藤さんは……い、い……」
「イケメンじゃないですか」とは言えなかった。
人の容姿をストレートに褒めるのは難しいし、美少女になった内藤さんに対しては過去形になってしまう。
実際のところ今の内藤さんも完璧な美少女ではあるけれど、そうなる前の内藤さんも相当な男前だった。
「まあ下から愛されているのは知ってるけど」
「そ、そうですよ」
顔がよくて、優しいのになぜか内藤さんには彼女がいなかった。
高校が男子校だから今まで一度もいたことがないらしい。
「別にモテなかったし、彼女ができないままこんなんになっちゃったけど、まあいい先輩になれたならそれでいいかなって思う」
もっと早く知っていれば……。
いや、私もなんとなくわかっていた。
内藤さんは誰に対しても面倒見がよいけれど、私には特によくしてくれた。
「もしかして内藤さんも……」とは思いつつも万が一心地よい関係が崩れるのが怖くて、私は踏み出すことができなかった。
それは内藤さんも同じだったのだろう。
「菊池の前ではかっこいい先輩でいたかったんだけどな。女になってから迷惑かけっぱなしだし」
「わ……私は楽しいですよ」
あの日に呼び出されて以降、最初は半ば一方的に私が内藤さんにお節介を焼いていただけだったけれど、最近は内藤さんも私を頼ってくれているのは純粋に嬉しかった。
「ありがとう。まあ、こうなってから菊池と仲良くなれたのはよかったかな」
意外とおっちょこちょいだったり、少し甘えん坊だったり、今まで知らなかった内藤さんの姿。
それを知れば知るほど、内藤さんが愛おしくなった。
「案外女になるのも悪くねえな」
内藤さんに私の気持ちを伝えなければならない。
これ以上引き延ばしするのはやめよう。
「私は……」
天井を見ながら深呼吸した。
「内藤さんを……」
言いかけたところでスピーという寝息が聞こえた。
「マイペースすぎるんだよな……」
「内藤さんまつげ長いな」と思いながら独りごちた。
そのまま内藤さんは一時間ばかり眠っていた。
履いていたジーンズによだれを垂らされたけれど、あまりにも寝顔が穏やかだったから起こす気にもならなかった。
おかげで脚がひどく痺れた。
「夏終わるんだな」
帰りの電車の中、ボックス席の向かい側で窓の外の夕日を眺める内藤さんはどこかアンニュイで美しかった。
「大学始まったらどうすっかな」
「手続きは済んだんですよね?」
「うん」
「そういえば、内藤さんが女の子になったことってみんな知ってるんですか?」
「お前以外には教えてねえな」
少し間を置いて、まだ寝足りないのか内藤さんは大きなあくびをした。
「そういえば、どうしてあのとき私を呼び出したんですか?」
「ああ、どうしてだっけ」
内藤さんは同期にも親しいメンバーがいる。
そういう人たちを差し置いて、内藤さんのひと夏を独占したみたいで少し嬉しいと思っていた。
我ながら少々気持ち悪い。
「なんかこうなったときに咄嗟に菊池が思い浮かんだからだったかな」
「……っ」
そんなことを言われれば、自意識過剰だとしても意識してしまう。
わざとじゃないにしてもあざとすぎる発言だった。
「内藤さん、さっきは……」
内藤さんが言っていたことを確かめたかった。
「さっき? ああ女の子の膝枕なんて人生で初めてだったからビックリしたわ。どうしてああなったの?」
「いや……なんでもないです」
「そうか」
「まだ眠いわ」と言うとそのまま内藤さんは背もたれに寄りかかって寝てしまった。
ここ最近、振り回されてばかりだけれど、それで余計に好きになってしまうのだから、私も大概なのかもしれない。
「またよだれ垂らしてる」
だらしない表情までかわいいと思ってしまう。
内藤さんが美少女なのも理由ではあるけれど、頼れる先輩としての姿を知っているからこそ少しダメなところに惹かれてしまう。
ダメ男を甘やかす女の心理はこういうものなのかもしれない。
★
目を覚ますといい匂いがした。
今朝は卵焼きだろうか。
「菊池起きたんだ。朝ごはんできたよ。もう十一時だけど」
「あ、ありがとうございます」
髪を後ろでひっつめた内藤さんは白いエプロンを着ていた。
私がお母さんからもらったけれど、一度も使っていなかったので内藤さんにプレゼントしたものだった。
フリルのついたいかにもお嫁さんみたいなデザインだ。
「どう?」
「おいしいです」
「人に食ってもらえると料理のしがいがあっていいな」
内藤さんは家事全般が得意だ。
料理は特に上手だと思う。
内藤さんのおかげで随分私のQOLは上がった。
「お世話しなきゃ」と少し前はお節介焼きをしていたけれど、実際は私が内藤さんに甘やかされている。
よほど私の方がダメ人間だった。
「夏休み終わるな」
カレンダーを見ながら内藤さんは言った。
あと一週間と少しで秋セメスターだ。
温泉に遊びに行ったあと、紆余曲折があってお互いの住まいに行ったり来たりの半同棲生活がはじまった。
紆余曲折、といっても大したものではない。
若さゆえの勢いと過ちで気がついたらこうなっていたのだ。
「もう大学生やってられるのもちょっとだし、どっか行きてえな」
「でも内藤さん院行きますよね?」
「そうだけど、院生と学部じゃ違うじゃん」
他愛のない話をしてひたすらダラダラ過ごす。
この瞬間が一生続けばいいなと思う。
ふと見ると、内藤さんの首筋に昨夜の痕が残っていた。
悪いなとは思いつつも内藤さんがかわいくてついついやってしまうのだ。
昨夜のことを思い出すと自然と頬が緩んだ。
前に想像していたものとは違うけれど、この幸せが愛おしい。
「ん、誰だろう?」
玄関のドアを叩く音がした。
ガチャガチャとドアノブをひねる音もする。
脳裏に万が一のことが浮かび、血の気が引いた。
「お兄ちゃん、いるなら開けて」
ドアの向こうから女の子の声がした。
どうやら杞憂だったようだ。
「なんだ」
「妹さんですか?」
「そう、急に来やがって」
呆れたように、でもどこか嬉しそうに内藤さんは席を立った。
「あ、ちょっと待ってください」
「ん?」
「その……首に……」
内藤さんの首筋の痕を妹さんに見られたら、私はどういう目で見られるだろうか。
最悪なファーストインプレッションは避けたかった。
「なんかついてるか?」
「いや、ちょっとですね……」
「開けるからね」
不思議そうに首を触る内藤さんに私が言い澱んでいると、鍵が開く音がした。
合鍵を持っていたようだ。
「お兄ちゃん、久しぶり……あれ、その人は?」
なにもできぬまま対面することとなってしまった妹さんは、今の内藤さんを五歳くらい成長させたような高校生くらいのポニーテールの女の子だった。
「えっと……サークルの後輩だよ。というか麻央、いきなりなんの用だよ」
「様子見に来たの。うん? お兄ちゃん、首どうしたの?」
「は? 首?」
「うん、なんかアザみたいなのがあるじゃん」
「え?」
内藤さんは私の方をチラ見した。
私がうなずくと内藤さんは察したのか、苦虫を噛み潰したような表情になった。
「あ〜、ちょっとぶつけてね。軽いケガだよ、ケガ」
「ふ〜ん、ケガね」
麻央ちゃんという名前らしい、妹さんは私と内藤さんの顔を交互に見た。
「後輩さんのお名前は?」
「き、菊池です」
「菊池さんね」
麻央ちゃんの視線は友好的なものではなかった。
まるで、肉食獣が獲物や敵に向けるような目だった。
「というか、お兄ちゃんそんな服持ってたんだね」
内藤さんはこの前一緒に出かけたときに買った黒いカットソーのワンピースを着ている。
「せっかくだし女の子の服を着てみようかな」と乗り気だった内藤さんが、いざ試着するとなると「菊池に見られるとちょっと変な感じ」と少し恥ずかしそうにしていたのがかわいくてゾクゾクした。
このワンピースを気に入っているらしく、何度か内藤さんは着ていた。
「私が中学の頃とかに着てた服少し持ってきたんだけど、もっと女の子っぽいのでもよかったかな。スカートとかいる?」
「いや、俺に気つかわなくていいって」
女の子の服に元々そこまで抵抗はないとはいえども、妹さんに見られるのは少し恥ずかしいのか、内藤さんは目をそらしながらそう言った。
「あ、そう。ならいいけど」
麻央ちゃんは肩に掛けていた大きなボストンバッグを床に置いた。
「荷物多くね?」
「うん、しばらく泊まるから」
「泊まるって、学校は?」
「連休だよ」
「場所はどうするの?」
「ここに決まってるじゃん」
「え……」
内藤さんは顔をしかめた。
「いや、ここ狭いし、無理だわ」
「本当に?」
麻央ちゃんは「全部わかっているぞ」という目で私と内藤さんを見た。
「う……」
「どうせ二人でも三人でも変わらないでしょ。私は銀マットでも敷いて床で寝るから、二人でベッドで寝ればいいじゃないの」
「お前さ……」
内藤さんは完全にやり込められていた。
「まあこんな感じですけど、菊池さんもよろしくお願いします」
文句をぶつくさ垂れている内藤さんを無視して、麻央ちゃんは私に深々とお辞儀した。
残念ながら、内藤さんにお世話されながらのダラダラした生活はしばらくはお預けになりそうだ。
「こちらこそよろしくね、麻央ちゃん」
心の中でため息をつきながらも、「でも、たまにはこういうのもありか」と麻央ちゃんのツンとした表情を見ながら思った。