恐妻予備軍
よく晴れた日であった。
俺は市場にシンシアと買い物へ繰り出していた。妹弟子と腕を組ながら下らない言い合いをする。仲が良いのか悪いのか自分でも甚だ良く分からない。だが、そのやり取りを不快だと思うことはなく、むしろ楽しんでさえいた。何てない日常のひとコマに、俺は楽しみを見い出していたのだ。
こういう日があっても良いだろう。そう、ささやかな幸せを感じる日も悪くない。同時にこうも思うのだ。ささやかな幸せほど儚いものはない、と。
「……グッバイ、俺のささやかな幸せ」
そう呟いて虚空を眺めていた視線を現実へと戻す。視線の先には、爽やかに微笑むアンと俺の背中に隠れながら、むぅむぅと彼女を威嚇するシンシアがいた。
アンは目が笑ってない上に凄みを効かせているし、シンシアにいたっては小物臭しかしない。俺を盾にするなと声を大にして言いたい。
はぁ、と意識して大きいため息を吐いた。是非とも哀愁漂う俺の後ろ姿を見て欲しい。誰か俺を慰めてくれ。できれば胸の大きいお姉さんを希望する。
そんなことを考え現実逃避に勤しんでいると、アンから睨まれ、シンシアに掌を摘ままれた。何それ怖い。俺の心が読めるのか。というか、ここぞとばかりにコンビネーションを働かせないで欲しい。もっと違うところで発揮させてくれ、切実に。
両手を上げ降参のポーズ。白旗は死ぬ前に振らなければ意味がない。タイミングが遅ければ、そこには死しかないのだ。
(……はぁ、なんでこうなったんだろうなぁ)
そもそも、市場でばったりとアンに会ったことが運のつきな訳で。手を組んで歩く俺達を目撃し、アンがガチギレしたという単純明快な顛末。なんでこうなったもなにも、原因は考えるまでもなかった。分かってはいたが、分かりたくはなかった。人とは心に矛盾を抱え生きるものなのだ。
そんな哲学的思考を重ねていると、試合開始のゴングが鳴った。いや、実際には鳴っていないが、そんな気がしたという話だ。
「其方、いつまでシェロの後ろに隠れているつもりだ」
「か、隠れてません。ただ兄さんの後ろに立っているだけですっ」
「屁理屈を申すな。それに何度も言っているが、シェロは私の許嫁だ。そのような不適切な接触は避けるようにしてくれ」
アンは僅かに目を細めて、シンシアを見つめる。底冷えする視線。シンシアは怯えたように肩を震わせ、俺の服をぎゅむっと握った。シワになるので止めていただきたい。
「私は兄さんの妹弟子です。妹弟子の世話を焼くのは兄弟子の勤めなんです。だから、これは必要なことなのです!」
はじめて聞いたわそんなハウスルール。俺は世話を焼かれることはあっても、世話を焼くことはしない主義なのだ。
「シェロは私の夫になる殿方だ。そんな彼に世話をさせるなど、言語道断。勝手を言うのも大概にせよ。世話役が必要なら私が使用人を手配する。シンシア・ウェントゥス、それで何も言うことはないな?」
「うーっ、でもでも……ううっ、に、兄さぁん」
アンに押し負け、情けなく即効泣きついてくる妹弟子。まぁ、平民が辺境伯令嬢に対抗しようとすること自体がそもそも悪手なのだ。相手がアンじゃなきゃ今頃牢屋にぶちこまれていてもおかしくない。
ずっとめそめそされても仕様がないので、慰めようと手を伸ばす。しかし、シンシアに辿り着くまでに、がっちり手首を捕まれた。結構な力で引き締められる。痛い。地味に痛い。
「シェロ、私の目の黒い内は許さぬぞ。全く、貴公も貴公だ。私以外の女とそのように触れ合うなど、心が浮わついている証拠だぞ。それに私も魔術師にも多様な規則や繋がりがあることは承知している。承知しているが、承認はしていない。節度のある関係を保つように」
「理不尽すぎる」
「それはこちらの台詞だ。シェロ、私とて愚鈍ではない。シェロが多情な殿方だと理解している。理解して尚、私の愛は一切揺らがない。だが……許している訳ではない。シェロ、婚姻までに全て精算してもらうぞ」
あまりの迫力に何も言えない。そんな俺を睨み付け、アンは踵を返し去って行った。
(……また、結婚したくない理由がひとつ増えたな)
「ううっ、兄さん。姫様怖いよぅ」
小動物のようにプルプル震えるシンシアを尻目に、俺は思わず頭を抱えた。
遅参の段、御免なれ!(土下寝)




