今を生きる
ラリッサの市街地の隅にひっそりと建てられた我が家。おんぼろな建物に違わないくたびれた内装は、頑張れば味があると思えなくもない。そんな家の台所で俺はじいちゃんと野菜を刻んでいた。
「嗣郎、以外と包丁捌きが様になってるな」
「まぁ、親父があんなのだからな。お手伝いのマーサーも毎日来れるわけじゃないし」
「あー、そっか。息子が苦労をかけてごめんな。後で叱っておくから、主に俺の嫁が」
気苦労が絶えないとばかりにため息を吐いて、じいちゃんは苦笑した。
黒髪に象牙色の肌。ここでは見ない東洋系の顔立ち。長身ですらっと引き締まった身体。年齢はもう60歳近いらしいが、外見はまだまだ若々しい。おじいちゃんというより、おじさんと呼んだ方が正直しっくりくる。
性格は穏やかでお人好し。身内にはとことん甘く、いつも無意味やたらと幸せそうな顔している。何故こんな善人からあのクソ親父が生まれたのか甚だ疑問を禁じ得ない。
気を取り直して、野菜を刻む。トントンと、リズムを良く包丁を振り下ろす。穏やかな時間だ。癒しとはこのようなものを指すのだろう。
じいちゃんは、時々こうやって俺たちの様子を見に家を訪ねて来てくる。じいちゃん曰く、孫に会いたいのが9割、親父の生存確認1割とのこと。親父の扱いに失笑。ざまあみろ。
「そりゃあ良い。親父もばあちゃんには形無しだからな」
「ふふっ、あいつは昔からおばあちゃんに弱いんだ。おばあちゃんはすごく優しいのに不思議だろ?」
「……うん、そうだね」
但しばあちゃんの優しさはじいちゃんに限る、という注釈をつけなければいけない。俺は空気を読んでツッコまないことにした。誰しも自分の身が一番可愛いのである。
「何か良いよなぁ」
「……じいちゃん、突然どったの?」
「休日に孫とご飯を一緒に作る。おじいちゃん、こういうのに憧れてたんだ。ふふっ、だから嗣郎ありがとうな」
じいちゃんはふにゃりと笑った。
その笑顔があまりにも暖かくて、目を伏せた。瞼を閉じて、力を抜いた。
血の繋がらない孫である俺に、じいちゃんはいつも笑顔を向けてくれる。実の祖父はこんな笑みをただ一度でさえ、俺に与えてくれることはなかったのに。戸惑う心を抱えたまま、声を上げた。
「……俺も、その、ありがとう」
おう、とじいちゃんは頷き、俺の頭をくしゃりと撫でた。恥ずかしくて、頬が自然と赤らむ。じいちゃんはそれを見て、更に笑った。
「じいちゃん、俺はもう頭を撫でられるような年でもないんだが」
「まぁ、そう言うな。孫を撫でるのは、おじいちゃん特権だ」
「おじいちゃん特権」
なんというパワーワード。
俺は吹き出しそうになる口元を意識して閉ざした。ちょっと唇が戦慄いてしまったが、完璧な初期対応だった。
「おー、お珍しい光景」
高速で舌打ちをしてから、振り向く。そこには、酷薄の表情を浮かべた養父が立っていた。
「帰れ」
「帰れも何もここは俺の家だろうが」
「知るか、玄関はあちらですどうぞ」
「あっはっは、この愚息め」
「こらこら、静も嗣郎も落ち着け。全くどうして最初から喧嘩腰なんだ」
じいちゃんは苦笑して、すかさず止めにはいる。全くしょうがないな、と首を振った。
「父さん、これは教育的指導だ。あまり口を出さないでくれ」
「静、お前って奴は……」
額に手を当て上を向く。呆れたとばかり溜め息を深く吐いた。
「シズカ」というのは親父の本名である。
何でもじいちゃんの妹さん、俺からしたら叔祖母さんの名前から一文字貰ったらしい。シズカ・ラッセル・アンダーソンが親父の正式名である。名前が女の子みたいという何とも子どもっぽい理由で、彼は自身のことをラッセルと名乗っている。因みに、ラッセルは親父が生まれた土地の名前だとか。
じいちゃんの容姿や口振り、親父の名前など、どこか日本めいたものを感じるのは勘違いではない。しかし、俺はじいちゃんを問いたださない。じいちゃんも俺を問いたださない。
どんな過去があっても、じいちゃんや俺はあの世界ではなくこの地で今を生きている。それで良いじゃないか。
本当にお待たせしました(土下寝)




